えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

アクラシアとその懐疑論 浅野 [2012]

非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

  • 浅野光紀 [2012] 非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

目次
第一章 自己欺瞞
第二章 自己欺瞞のドグマ
第三章 自己欺瞞の帰結 
第四章 アクラシア ←いまここ
第五章 実践推理の外へ
第六章 アクラシアの自由

 ここからは、「行為と思考の分裂」という観点から、アクラシアを自己欺瞞と統一的に論じていきます。

1 実践推理

 実践推理は、言語を使ってなされる意識的な推論過程であり、当人が思いつく限り「あらゆる事情に鑑みて」の最善の判断の事です。最善の判断に至った時、当人に残されているのは、この判断に従った実践のみであるように思われます。

2 最善の判断に背く自由な行為

 アクラシアは、行為の時点での最善の判断に自らそむく非合理な行為です。その特徴は3つあります。

1.意図的である

 ある行為の意図を説明することは、それがどのような信念と欲求を背景になされたかを言う事に他なりませんでした。アクラシアに関しても、それらを指摘することは容易であり、これは意図的行為であります。

2.自由な行為である

 自由な行為の条件は他行為可能性です。アクラシアは強制された行為ではないので自由な行為であると考えられます。アクラシアに関して一般に当人の責任を問えるというのもこの点を補強します

3.行為の時点での最善の判断に背いている

 アクラシアは悪いと知りつつなお行われる行為です。目先の利益によって判断が曇らされたうえでアクラシアがなされると考えられる傾向もありますが、そうではありません。アクラシアは、自分のなすべき行為は他にあると意識しつつ行われます。この点で、単なる「心変わり」とは別物です。
 以前の判断が行為の時点でも維持されていることは、行為の最中の自責や恥の感情の存在からもわかります

3 アクラシアの射程

 アクラシアは、自堕落な悪癖の類、長期的利益を犠牲に短期的欲求に屈してしまうというかたちで描かれる傾向にあります。しかし、短期的利益を犠牲に長期的な欲求に屈してしまう事もあります(あまりにもまじめすぎる人)。ここではアクラシアを、「最善の判断に背く自由な行為」とだけ形式的に定義し、その内実は問わないことにします。

4 パラドクス

 アクラシアのもたらすパラドクスを最初に明確に定式化したデイヴィドソンの見解を確認しておきましょう。
デイヴィドソンは次の二つを行為の原理として立てました。

P1 もし行為者がxを行うことをyを行うことよりも欲し、また彼がxかyのどちらかを自由に行いうると信じているとき、もしかれがxかyのどちらかを意図的に行うのであれば、彼はxを意図的に行うであろう。

P2 もし行為者がxを行う事をyを行う事よりも良いと判断するならば、彼はxを行うことをyを行うことよりも欲する。 

そして、デイヴィドソンは次のようにアクラシアを特徴づけました

D 行為者がxを行う際に自制を欠いて行為しているのは次の場合でありかつ次の場合に限られる。(a)行為者はxを意図的に行なう、(b)行為者は別の行為の選択肢yが自分には可能なものとして開かれていると信じている、そして(c)行為者はあらゆる事情に鑑みてyのほうがよりも良いと判断している。

そしてデイヴィドソンは次の命題も採用します

P3 アクラシアは存在する

しかし、P3とP1、P2は端的に矛盾し、パラドクスが呼び起こされます。ここでデイヴィドソンは、P2の解釈を変更することで、この3つを調停させようとしました。それについては次章で扱います。
 ところで、P3を否定しアクラシアは存在しないと主張する論者もいます。そもそもソクラテスがそうでした。アクラシアと呼ばれる現象をP1、P2に包摂できるように再解釈するこの懐疑論はうまくいくでしょうか?

5 懐疑論

 アクラシアの中心事例である「長期的利益を犠牲に短期的利益に屈する」ことを考えましょう。このような場合、「今回に限り」目先の快楽にふけっても大過ない、次回からちゃんと長期的利益を優先させればよいという思考の過程が介在している可能性は無いでしょうか。つまり、実は行為の直前に判断の逆転が起こっているのではないでしょうか。
 こう考えると、アクラシアは、確かに行為直前までの最善の判断には背いているかもしれませんが、行為の時点での最善の判断には従っていることになります。デイヴィドソンはアクラシアを、最善の判断と行為が「同時」と考える「共時的な不整合」だと考えましたが、実はそれはむしろ「通時的な不整合」であり、真のパラドクスは存在しないのではないでしょうか。
 例えばエルスターやエインズリーは「選好の逆転」によってアクラシアを説明しようとします。短期的快楽の物理的近接性や時間的近接性によって、最善の判断が行為の直前で変わってしまうと考えるのです。しかも、当初の最善の判断は、目先の欲求を充足させた後再び回復します。これは、自らに課した行動原理に「例外」を設けることによって行われます。「今回に限り」目先の快楽にふけっても大過ない、次回からちゃんと長期的利益を優先させればよいという実践推論が、行為の直前に介在し、判断の逆転が行われるのです。
 このような説明により、アクラシアは行為の最中に最善の判断と実際の行為が乖離している現象とは見なせなくなり、パラドクスは解決します。

6 二つのアクラシア:懐疑論論駁

 懐疑論に対して良くとられる応答は、アクラシアが存在することは「経験的に自明」だと考えることです(デイヴィドソン)。しかしここでは懐疑論の議論がひそかにアクラシアの存在を前提していないか探る道をとりましょう。
 判断の逆転によってアクラシアが説明される時、ここには自己欺瞞が介在しています。行為の直前に介在してくる実践推理は、欲求に駆られた心が行う証拠の操作に他なりません(ベアーズはこのような「自己欺瞞的アクラシア」と、真のアクラシアである「土壇場での意識的なアクラシア」を区別しています)。自己欺瞞的アクラシアを行うものは、いつまでも例外を設けていれば結局長期的利益には至れないことに早晩気づかざるをえません。この自己欺瞞的な心の動きに気づいた時、つまり自己欺瞞から目覚めた時、人はアクラシアをやめるでしょうか?
 懐疑論者ならYesと答えざるをえません。彼らにとって自己欺瞞による判断の逆転がなければアクラシアは存在しないからです。しかしこの答えは独断であるとともに完全に転倒しています。むしろ、自己欺瞞から解放された地点において初めて本当の意味でのアクラシアが明白にあらわれてくるのです。当人は、じつは常に既に本来の意味でのアクラシアに陥っていたのであり、それを隠ぺいするために、自己欺瞞による自身の行為の正当化、口実作りが行われてきたのです。自己欺瞞がアクラシアに追随するのであって、懐疑論者の言うようにその逆ではありません。欺瞞的な自身の行為の合理化が後から来るのです。つまり判断の逆転が生じるのは行為の直前ではなく行為の直後、あるいは行為に伴ってなのです。
 しかしこう考えると、実践推理とは独立に、意図的行為を決定する要因が存在することが帰結します。自己欺瞞的アクラシアにおいては、推論的思考は行為決定に関与していないことになるからです。
 かくして、懐疑論は完全に転倒されました。本来の意味でのアクラシアは存在します。