えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

道徳に関する感情主義を自然化する Nichols (2007)

Moral Psychology: The Cognitive Science of Morality: Intuition and Diversity (A Bradford Book)

Moral Psychology: The Cognitive Science of Morality: Intuition and Diversity (A Bradford Book)

  • Sinnott-Armstrong, W. ed. (2007) *Moral Psychology: The Cognitive Science of Morality: Intuition and Diversity*

Ch. 5 Nichols, S. "Sentimentalism Naturalized" ←いまここ
  Ch. 5.1 Blair, J. "Normative Theory or Theory of Mind? A Response to Nichols"

感情主義的メタ倫理

・感情主義とは、道徳判断において感情が重要な役割を握るとする主張の事である。まずその歴史を概観する。ホッブズは「Xは悪い」は「私はXに反対である」を意味するのだと考えた(一人称主観主義)。しかしこの説は【2】道徳的不一致という現象を説明できない。ヒュームは「多くの人はXに反対である」に訴える共同体主観主義を唱えたが、依然共同体間の不一致が説明できない(Steavenson 1937)。これに対し「情動主義」は、道徳判断は感情を「表出」するとして回答を与えた(Steavenson 1944)。
・しかし、【3】感情を失っていても道徳判断は出来るのではないかという批判(Darwall, Gibbard and Railton 1992)や、一般的な道徳原理からの個別的判断の導出(Toulmin 1950)や三段論法(Geach 1965)といった【4】道徳判断における推論の役割を説明しがたいという批判が投げかけられた。
・これらの批判を回避(=制約を満たす)べく、道徳判断を単に感情の表出と同一視するのではなく、「行為に対し特定の感情を向ける事が適切である」という判断と同一視する動き(ネオ感情主義)が現在優勢である(D'Arms & Jacobson 2000, Blackbarn 1998, Wiggins, 1987b)。例えばギバードは、ある行為が道徳的に悪だという判断は、「その行為をすることに罪悪感を感じる事に根拠がある」という判断だと論じた(Gibbard 1990)。
・しかし、こうした動きは創意工夫に富み過ぎていて普通の道徳判断の説明としてはありそうにないのではないか?

コア道徳判断と乖離の問題

・ヒューム以来感情主義は自然主義の側に立ってきたが、ネオ感情主義が経験的証拠に訴えることは稀である。しかし、道徳判断は特定の情動、特に罪悪感の適切性の判断であるという主張は経験的コミットメントを含んでおり、道徳判断能力と罪悪感の適切性の判断能力の乖離が存在すれば、ネオ感情主義者にとって深刻な問題である。
・ところで、道徳判断能力に関する心理学的な探求は、経験的な道徳/慣習を区別する能力の探求という形で行われてきた(Smetana 1993, Tisak 1995)。子供は、以下のような点で両者を区別する事が知られている。

・道徳違反の方がより許しがたい
・道徳違反は一般的に悪い(i.e. 他の国でも悪い)
・道徳違反の悪さは公平性や危害に訴えて説明される/慣習違反の悪さは社会的な受容可能性に訴えて説明される
・慣習的規則は権威に基づくとされる

・こうした区別は、一種の「コア道徳判断」を反映していると考えることが出来るだろう。子供は3歳くらいで既に、コア道徳判断を把握する(Smetana and Braeges 1990; Blair 1993; Dunn & Munn 1987; Smetana 1989)。
・一方、発達心理学によれば罪悪感や誇りや恥といった複雑な情動の理解は7歳くらいまで無い(Harris 198, 1993; Harri, Olthof, Terwogt, & Hartman 1987; Thompson & Hoffman 1980)。Nunner-Winkler & Sodian (1988) は、意図的に他人をブランコから押し出す子供はどういう感情を持つかと被験者に尋ねた。すると6歳未満の子供はしあわせに感じるだろうと答えるのに対し、6歳になると否定的感情をもつだろうと答える。別の研究では、しあわせな/悲しげな表情で道徳的違反を犯す人物の絵が被験者に示され、その人がどの位「悪い」かが問われる。4歳では、両条件で同じ位悪いと判断されるが、8歳ではしあわせな表情の人がより悪いと判断される。従って4−8歳の間に、道徳違反には否定的感情が伴うし、そうある「べきだ」という観念が発達している。
・【〔0〕乖離の問題】これらの知見は、3・4児はコア道徳判断が出来るが、罪悪感の適切性に関する規範的判断は難しそうだと示唆する。これはネオ感情主義者の説を脅かす。
・〔子供にみえる〕コア道徳判断は代用物にすぎず、子供は道徳性を理解していないと論じる事は出来るが、この動きは危険である。コア道徳判断は大人の判断と違うというのは経験的主張であり、コア道徳判断が大人でも存続し道徳判断の多くを導くとすれば、ネオ感情論者は規範に関わる日常の営みの重要な部分を無視する事になる。
・更に、子供の道徳判断でも感情が重要そうだという点(深刻性や権威独立性の判断で/判断と動機の結合の点で)および、【1】子供でも道徳的不一致を起こす点や【3】子供でも道徳推論をこなす点を考えると、子供の道徳判断の説明もやはり上記の制約を満たす必要があるだろう。〔だから〕子供の道徳判断に関する正しい説明が何であれ、それは大きな変更なしで大人にも適用できると考えるのは尤もらしいだろう。

自然化された感情主義に向けて

・20世紀の感情主義は言語哲学の支配の下、道徳判断の内容の一部が情動だと論じた。しかし問題を心理学の目で見るならば、情動に別の場所を与えられる。情動は我々をして、(道徳的違反を含む)ある種の違反を、<特別なもの>として扱わせるのである。

【基本的アイデア】
コア道徳判断は
「有害な行為を禁じる一連の情報」と
「他者の苦痛によって活動する情動メカニズム」の2つに基づく。

道徳判断が感情に裏打ちされた規範理論に依存している事は可能なのか?

・Blairの一連のサイコパス研究は、情動反応が道徳慣習課題のパフォーマンスに何らかの形で影響することを示唆する。コア道徳判断に関わる情動メカニズムの詳細はまだ不明だが、「個人的苦痛」(Baston 1991)および「心配」(Nichols 2001)を引き出すメカニズムが知られている。
・しかし、他人が苦痛を被るが道徳的判断は伴わない事例(自然災害や、多くの利益が伴う場合)を考えると、情動メカニズムへの訴えだけでは十分ではない。そこで、有害な違反を禁じる〔規則の〕心的表象の総体である「規範理論」が必要となる。規範理論は、道徳的に悪い危害と許容可能な危害の区別の基盤となる。
・両メカニズムは独立である。危害への情動反応は2歳以下から見られるが、コア道徳判断は2歳以降にならないと見られない。この事は規範理論の発達によって説明されるだろう。また、サイコパスはある意味では規範的な議論を普通に行う事ができるが、これは情動システムの損傷後にも規範理論が残っているためだと考えられる。
・コア道徳判断は、「情動に裏打ちされた規範理論」(ANT)から出てくるものある。

制約を満たす

・ANTはこれまであげられた制約を上手く解く感情主義的理論になっているか?

  • 【0 乖離の問題】

・ANTは子供の情動「理解」にはコミットしないのでこの問題は生じない

  • 【1 そもそも感情主義か】

・有害な行為を禁じる規範を他の規範とは別様に扱わせる点で、感情が鍵となる役割を果たしている。この制約は満たされている。

  • 【2&3&4 感情なし & 道徳的不一致 & 道徳的推論】

・ところで、子供はゲームの規則やエチケット、学校の規則や家の規則など様々な領域の規則に関して互いに不一致を起こす。また既に3歳児は、親しみない任意の規則の違反を上手く検出し、正当化を与える事が出来る(Harris and Núñez 1996)。また、例えば「マリーは学校ではピグってはいけませんが、家でならピグっていいです」といった意味不明語で慣習の情報を与えると、未就学児は「他の国ではピグってもいい」という推論を行う傾向がある。これは演繹的推論を行っているのだろう(Smetana 1985)。
・従って、非道徳領域において子供は「不一致」「感情なし」「推論」の3制約を満たしている。道徳判断の不一致や推論といった特徴は、その他の規範的思考と共有されている特徴である。すなわち、コア道徳判断にそれ独自に寄与する規範理論によって、こうした特徴は引き出されている。

感情主義と規範の進化

・感情主義者は、規範と情動のつながりを強調してきた。危害を禁止する規範は〔見てる方の〕苦しさと密接に結びつく。また、体液をみだらに見せないと言う規範は、嫌悪と密接に関係する。
・伝統的感情主義者やネオ感情主義者は、道徳概念に感情が抜きがたく埋め込まれている事に訴えてこの結び付きを説明するだろう。一方ニコルスの考えでは、むしろ規範は道徳判断へ独立に寄与するのだから、規範と情動の間の調和的関係は一見不思議。
・この結び付きを説明するのは文化進化である。すなわち、情動は、いかなる規範が文化の歴史の中で残っていくかを決定する(「感情反響」仮説)。
・感情反響仮説を支える理論的根拠として、感情的に顕著なものは注意をひきやすく記憶されやすいことがあげられる。
・さらに歴史的証拠もある。エリアスの『市民化の過程』(1939/2000) は、中世から19世紀までのエチケット本をレビューする中で、体液に関する行為が禁止され、それが存続していく多数の事例を挙げている。また、エラスムスの『男児のためのマナー集』をみると、「饗宴の際に着席する時は両手をテーブルの上に置くこと」などは廃れたが、「帽子や服で鼻をかむな」「吐きそうならやめろ」などは確かに今日でも根付いている。
・次に、他人の苦痛への嫌悪感情の普遍性と生得性を考えると、危害を禁じる規則は文化進化の中で大きなアドバンテージを持つだろう。実際、道徳の進化について、道徳規範が特徴的な発展パターンを示すという事が通説になってきている。すなわち、危害を禁じる規則は小集団からより大きな集団へと拡張し、その集団内部での様々な形の危害に適用されるようになる。このパターンは感情反響仮説の証拠となるだろう。

結論

【まとめ】
・道徳判断に対する情動の寄与は哲学的分析で分かるものではない。
・むしろ心理学を見よう
・ただし、内的に表象された規則の集合も、道徳判断に独立に寄与する
・規範の進化にも情動は大きな役割を果たす