- 作者: チャールズ・テイラー,下川潔,桜井徹,田中智彦
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2010/08/31
- メディア: 単行本
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- テイラー, C. (1989=2010) 『自我の源泉』 (下川他訳 名古屋大学出版会)
第三章 不明確な倫理
第八章 デカルトの距離を置いた自我
第九章 ロックの点的自我
第十四章 合理化されたキリスト教
第十五章 道徳感情
第十八章 砕かれた地平 ←いまここ
第十九章 ラディカルな啓蒙
第二二章 ヴィクトリア朝に生きたわれらが同時代人
第二五章 結論ーー近代の対立軸
1
循環的因果と、「人生善」と「構成善」の内的関係
・18世紀の西洋諸国には、自律・自己(感情)の探求・個人的コミットメント、さらに生産的労働や家族を重視する道徳文化が生じた。この文化は経済的・社会的「土台」と循環的な因果関係を持つ。同様の循環は、道徳的文化と「哲学的定式化」の間にも存在する。
・[348;3] この循環を忘れると、「人生善」と「構成善」の関係が見失われてしまう。〔人生善を善たらしめる特徴が構成善(p. 110;3)〕。素朴な人々が重要だと感じるもの(ex「感情の礼賛」)を哲学者は厳密に定義する(ex.「哲学的道徳感情理論」)。この時〔哲学者が行う〕構成善記述に素朴な人は貢献しないかもしれないが、それでも彼らのその感覚は、道徳的源泉についての「非体系的な」直観によって形成されていた。だから人生善は構成善の様々な定式化と内的関係を持っている。従って両者の関係は明確なものではなく、自律や仁愛は理神論的秩序が失われても存続した。しかし理神論は文化の変動の方向と決定したのである。
宗教活動の衰退
・[350;2] 道徳的文化の変容と並んで理神論が導いたと思われるのは宗教活動の衰退である。18世紀後半啓蒙の全盛期ですら無神論者は稀だったが、現在はそうではない。この変化の原因として「世俗化」に訴えるのは問題の言い換えである。しかし、これが答えに見えるのは、我々が宗教の衰退の必然性について非体系的な確信を持つからである。
・[351;2] この必然性の根拠として(1)制度的変化(工業化、人口集中、社会的流動性)による伝統的信念の崩壊や、(2)科学と教育の普及がよく挙げられる。しかし制度的変化が信仰を侵食する必然性は不明だし、近代科学の発展は宗教的世界観に結び付いていた。
・[352;2] かつて、自分の生活が道徳的次元を持つ事(→アウグスティヌス的証明)や秩序の観念を介して(→設計による証明)、神と道徳的源泉は結び付いていた。神の存在が明白ではなくなった事こそ、世俗化がもたらしたもの、最終的に説明されるべきものである。
・[354;3] この説明は「障害の除去」の形をとると考える者がいる。テイラーもある意味では、この変化は「認識上の進歩」によると考える。神が結び付かない道徳的源泉の余地が生じた事が重大であり、それらは人間の真に重要な潜在能力を反映しているからである。
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他の道徳的源泉の利用可能性
・[355;2] 別の源泉が「利用できる」ようになるには、それが伝統の中に既にあるだけでは不十分である。先駆的に見える非正統な著作も、日常生活の肯定や内面性の欠如・宇宙の秩序と道徳の統合などの点で、近代初期の道徳的経験を捉える事が出来なかった。これらの代用として、道徳的探求の「2つのフロティア」、すなわち<(制御する人間の)尊厳>と<自然>が生み出された。それを生んだ刺激はキリスト教文化の中に存在していたが、両源泉が神なき形態においてこそ適切だという変化に至るには、更なる刺激が必要であった。この両者の不信仰的形態へと駆り立てた道徳的衝動を理解する事が、それぞれ次の2章のテーマになる。
3次元の空間としての現代の道徳的文化
・[359;3] 現代の道徳的文化は、<尊厳>と<自然>およびその基礎だった<有神論>という、相補的でも対抗的でもありうる3つの方向から図式化できる(有神論が内在的に問題視されるのに劣らず、尊厳と自然もその適切性を問題視されている)。以下では、近代的自我の理解という目的に添いつつ、3フロンティアの発展・変化・関係を追うことになる。