えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

普遍的仁愛の道徳 vs ケアの倫理 Slote (2001)

Morals from Motives

Morals from Motives

  • Slote, M. (2001) Morals from Motives (Oxford University Press)

Ch.1 Agent-based Ethics
Ch.5 Universal Benevolence versus Caring ←いまここ

1.普遍的仁愛 vs 普遍的愛

  • 「普遍的仁愛としての道徳」
    • 行為が正しい/許容可能なのは、その行為が十分に普遍的(つまり偏らない)仁愛を表現/反映している場合に限る。
    • 功利主義とは異なり、普遍的仁愛の道徳は、私たちの直観道徳である義務論をそれなりにうまく捉えている。
    • 一方3章では、同じく義務論的傾向を持つ、愛を重視するケアの道徳が提示された。そこでは、愛は特定の人にのみ向けられるものとして考えられていたが、「普遍的な愛の倫理」を採用するとするなら、これと「普遍的仁愛の道徳」のどちらが優れているだろうか?
  • 人類全体への関心(humanitarian concern) vs 全ての人への愛
    • ある人に対して、単に(人類全体への)関心〔の一部〕を向けるよりも、その人を愛することの方が、ふつう賞賛される。
    • しかし、「全ての人を愛する」ことは可能なのか?
      • 明らかに、知らない(あったことない)人を愛することは不可能だろう。
    • 「出来るだけ多くの人を愛そうと「努める」こと」なら、聞こえもいいし実際できそうではあるが……それは本当に賞賛すべきものか?
      • 自分を愛していた人が、別の人へも愛を広げようとしているとき、その人はないがしろにされたと感じる。
        • →それ「ただの嫉妬」やし気にしなくてもええやん
          • そうではない。「適切なプライド」が存在するのと同じように、本当に愛が減じられた場合の「適切な嫉妬」と言うべきものが存在する。
    • 出来る限り愛する、というのは愛の精神に反しており、「普遍的な仁愛の道徳」の方が上手く行きそう。

2.普遍的仁愛の正義

  • では、普遍的仁愛は社会的・法的正義の理論を基礎づけられるか?
    • 正しい社会とは、そこに住むもの/市民が人類に対して十分な仁愛をもつ社会である(4章より)
    • 功利主義に比べ、人に与える結果ではなく、(良い結果をもたらそうとする)動機を基礎にしている
      • 例:功利主義的に言うと、貧しい人の事を気にかけない資本主義的強欲が支配する社会は、たいへん良いトリクルダウン効果(富めるものが富めば貧しい者も富む)を産む。
      • 一方普遍的仁愛の道徳の場合、強欲な社会は互いに助け合おうとする社会より不正
        • もちろん経済学を知れば援助をやめる場合もあるだろう。それでも、強欲が反省なしに良い結果を生み出している社会とこの社会は違う。
    • 以上のような議論により、4章で見たような様々な社会的不正の問題を解決することが出来そう。
  • ところが、普遍的仁愛、愛、そしてバランスあるケア、どれをとっても、とにかく温かい感情が大きな社会的不正を導くという反論がある。

3.人類全体主義[Humanitarianism]と宗教的信念

  • 最近のカント主義/リベラルは、愛とか同情とかの自然な感情は社会的正義を説明できないどころかそれを妨げると主張する。
    • 例:キリスト教みたいな宗教は、まさに他人への愛とか関心から、他人の信教の自由を奪うことがある、と広く考えられている。
    • こうした信仰の強制は正義を破っている。正義は宗教的不寛容や宗教戦争を無くせるような不偏性か無関心さの理念を含む、とリベラルは考えている。
    • 以下ではこれに対し、キリスト教的な愛や世俗的仁愛やケアは、リベラルで民主主義的な国家に対する脅威にはならないと論じる。

【論点1】宗教的不寛容が不正ではない場合はある

  • 国家・共同体・家族などの危機の場合がこれに当たる。
    • 仮に、神が存在して、今後誰かがトマトを食べたら人類を滅ぼすと言っていることを示す証拠が手に入っているとしよう。この場合、トマトを食べる人に不寛容であることは正しいだろう
  • ただし、近代では特定の宗教的見解が正しいという証拠とかないので、この話は当面の議論にはあまり関係ない

【論点2】人類全体への強い関心を持っている人は、特定の宗教を信じないと地獄に落ちるとかそういう信念は持たない

  • 愛は関連するさまざまな思考や情動と結あびつきあっている。
    • 愛している人が幸せなら自分も幸せ、不幸せなら不幸せになる
    • そして、行方不明になったと知らされて何年たっても息子は生きていると信じ続ける母のように、私たちは愛している人が不幸であるという信念を持とうとしない。
      • 多数の人の幸福に関心を払っている人は、〔多く人が不幸になりかねない〕天罰の教義を信じようとはしないだろう
  • この態度は認識的に言って不合理かもしれない。
    • そうかもしれないが、実際愛は盲目にするものなのだ。
      • 誰かを愛している人は、そうでない人と同じ証拠を見たとしても、それをネガティヴに解釈するのに抵抗するだろう。
      • というか、こういう傾向を持ってないならその人を本当に愛しているとは言えない、と言いたい。
    • 合理性に関していえば、愛や関心は取り除くようにすべきと言う人も、人間には不合理であることによって得られる重要な善がある人もいるだろう。また、特定の強いポジティブ感情が信念に与える影響は不合理とみなすべきではないという人もいる(Morton 1988)。
  • 改めて問題:近代において、同胞に強い関心をもつ者が、信じない人は地獄の業火に焼かれるなどという宗教的信念を抱くことはあるか?
    • この場合、日常的で直観的な思考・推論・証拠に留まり、こうした宗教的信念には飛びつかないだろう。
  • 逆に言うと、(神が天罰について語ったという経験を持ち)「既に」こうした宗教的信念を受け入れている人は、標準的思考法を棄却しているが……
    • こういう人が同胞に強い関心を持つ場合、反直観的で特殊な論理に支えられている宗教的信念を棄却する方がありそうなことだ。
  • 従って、人類への強い関心を持っている人が、他人が天罰を受けないようにと信仰を強制することになる道筋は、ありそうにない。
  • 〔反論a〕しかし、子どもはまず漠然と信仰を教えられ、天罰とかそういうヤバイ帰結にはあとから気づくのではないか。
    • そうかもだが、その子供にのちに人類への関心が芽生えたときには、やはりその信念に抵抗するようになるだろう。
  • 〔反論b〕子どもは親を裏切りたくないという思いから、天罰の信念を受け入れるのではないか?
    • そうかもだが、親を裏切りたくないというのは自己中心的な関心であり、人類への関心と両立しない。人類への関心を持つなら、親がそうした説を教えたことにショックを受け、抵抗するだろう。

4 人類全体主義と不寛容

【論点3】人類への関心と宗教的不寛容は共存できない

  • ここまででは、「人類への関心を持つ人が天罰の信念を持ち宗教的不寛容になる道はない」と論じただけ。続いて更に強い主張を行う。
  • 宗教的不寛容に理由を与えることになる「〔相手の(無)信仰より〕自分の宗教の方が優れているという確信」は、かなり傲慢である。
    • 誰かを本当に愛している人は、相手の視点に共感するのであり、自分の方が相手よりも優れていると傲慢な仕方で考えたりはしない。
  • とはいえ、「相手よりも自分の方が物事をよく知っている」と考えること自体は別に傲慢ではないから明確化が必要だ。
    • 親は子供にあまり宗教上の選択肢を与えないが、しかし子供への愛がないとは思われない。事実、子供は大人より宗教的知識がない。
    • しかし、相手がまた別の大人の場合はどうなのか?
      • 「進んだ」人々は「未開の」人々へ宗教を強制してきた。〔後者は確かに科学や技術では劣っているかもしれない〕。しかしその優位は道徳・宗教上の優位には自動的に変換できない。
    • さらに、仮にある宗教が他の宗教より優れているにもせよ、そこで宗教的に不寛容になってしまえば、来るべき新しい人々や無神論者に対しても自らが優れていると考えることになる。
      • 無神論者は「原始的」どころか知的に洗練され過ぎているきらいもあり、子どもとの類比は成り立たない。
  • 宗教的迫害や抑圧が人類への関心と両立すると考えている人は、前者が(人類への関心と両立しない)「傲慢」と結びついていることを理解していない。
  • なお、パターナリスティックな立法も同じ種の傲慢を反映している場合がある。この限りで、人類への関心という立場はリベラルで自律的な意思決定に明らかに味方しているのである。

【さらなる論点】宗教的に不寛容な人は、ケアを欠いているどころか、むしろその反対物である偏見を持っている。

  • 他人をケアしている人は、その人に賛同する傾向を持つだろう
    • 例:知識階級の両親が娘を愛し教育を重視していたのだが、娘は農家をやりたいと言い出した。
      • 両親はまずは娘を説得するだろう。しかし最終的には、娘が選んだ生活に温かい気持ちを寄せ、娘に欠点があったのだと考えるのではなく、新しい生活に興味を持つようになり、そこでの成功が自分たちを充実させるようにもなるだろう。
  • 他人の宗教的営みを悪い観点から見、受け入れず、またそれに反抗するような傾向性は、愛とかケアの欠如だけではなく、こうした感情とは逆行する本性を持つ「偏見」の存在をも示している。
  • 以上の議論から、「温かい感情主義的な徳倫理は、宗教の押し付けが不正であることを説明できないため、不適切な理論である」という主張はかなり疑問の余地があることが分かった。
    • なお同様の理屈から、信仰の自由以外にも、言論の自由など、リベラルな民主的正義の要素である様々な市民的権利を擁護できそう。

5.ケアか普遍的仁愛かを選ぶ

  • 〔この章で言われたこと
    • 1節:「普遍的愛の道徳」は成り立たなそう
    • 2節:普遍的仁愛の道徳は社会的正義を説明できそう
    • 3・4節:温かい感情主義的徳倫理一般が社会的不正を正当化することはない〕
  • 「普遍的仁愛の道徳(と正義)」と〔3〜4章までで見た、バランス型の〕ケアの倫理のどちらが道徳理論として優れているだろうか?
    • ケアの倫理の方が優れている、と思われる。
      • 私達は、例えば子供や仲間を愛さない人をあまりよく思わない。
        • 近くにいる人に関しては愛/愛ある関心が道徳的に求められるのであれば、全ての人への等しい関心を重要視する不偏的仁愛の道徳は問題を抱えることになる。
        • また、上で見たように、全ての人への愛は不可能だから、愛と不偏的仁愛は両立しない。
          • 愛が道徳的に適切・必要なものだとすれば、人々の幸福に対する不均等な関心もそうだという事になる。
  • 不偏的仁愛の道徳に比べ、ケアの倫理は複雑で、とくに「バランスをとる」という考えはあまり馴染みのあるものではない。
    • しかしながら、愛する特定の人や集団を代替不可能な形で扱うことが直観を捉えているということをここまでで示せたはずだ。
  • 慎重にではあるが、ケアの倫理(温かい行為者ベースの徳倫理のうち偏ったモデル)を支持する。

【第一部まとめ】
行為者ベースの徳倫理 【1, 2】
├冷たい ← 同情や憐みの道徳的価値を説明できない【1-3】
└温かい
  ├普遍的仁愛の道徳・正義:人類への関心(偏らない)【1-4, 5-1~4】
  └ケアとしての道徳:バランスある愛(偏る)【3】
    ├正義:全ての人を愛する(偏らない)←適切な嫉妬の存在【5-1】
    └正義:バランスある愛(偏る)【4】 ……◎