https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1468-0114.1982.tb00109.x
- Michael Slote (1982). Goods and Lives. Pacific Philosophical Quarterly, 63(4): 311-326.
[1][2]「善はどの時点で生じるかによって、人生の全体の良さや行為の理由が変わってくる」という考え(時間選好)は、道徳理論の中では一般に否定されている。この現象が特異でも不合理なものでもないとこの論文では論じる。
I
[3]個人の人生の善を導く原理として最大化を採用する哲学者のなかには、その原理を社会的良さにまで適用しようとする功利主義者(シジウィック)と、それに反対する者(ロールズ・ネーゲル)がいる。だが両者は時間選好の否定の点で一致している。[4]他方、個人的善にかんする原理として最大化を否定する哲学者(セン)もいる。センは、善が時間的におおむね均一に分布していることが、最大化とは独立の重要性を持つと考えているようだ。[5]だがセンは、最大化論者たちが仮定する時間的平等には反対しない。それどころかセンは、時間的平等にかんして功利主義と異なる解釈を与えているのだと言える。平等主義者は、社会的善の分配における諸個人の平等という理念は、諸個人のあいだに等しく良さを分配することで実現されると考える。これと同じように、個人的善の分配においても、各時間に良さを等しく分配するのが時間的平等なのだというかもしれない。[6]なお、人生の各時期固有のニーズに応じ良さを分配することこそ時間的平等だとする考え方もある(Charles Fried)。
[7]さて、上記の哲学者はいずれも、反省を踏まえた常識的判断で自説をテストする必要性を強調している。だが、時間選好の否定はこのテストを通過しない。
II
[1]人生には、社会的な影響受けつつも、しかしやはり自然ないくつかの段階がある。[2]そして、一定の段階は他の段階より重要だと感じられるものだ。まず、幼少期・青年期の成功や不幸は値引かれる傾向がある。[3]子供時代の扱われ方は、ある意味で夢の扱われ方に似ている。プルーストが指摘したように、人生の現実の善し悪しのなかに夢の中での快苦を算入しようとは、私たちは思わない(起きている時間に影響する場合は除く)。同じように、子供期の成功や失敗が大人になった人生に与える影響も、割り引かれる。この種の常識的判断を、ロールズ他の哲学者は十分考慮できていない。
[4]上記の傾向性を理論化するためには既存の術語では不十分である。たとえば、合理的欲求/不合理な欲求の区別を考えよ。望まない薬物中毒者はたしかに薬物を欲するが、それは不合理な欲求である。〔そのため、その欲求の充足によって当人の善が増加するとは考えがたい。〕これと同じように、少年時代とは不合理な欲求に満ちた時代なのだと考えられるだろうか。[5]これはにわかに信じがたい。[6]望まぬ薬物中毒者は、薬物への渇望を嫌悪し否認するが、私たちが子供時代の欲求に向ける態度はこのようなものではない。私たちが子供時代の欲求に向ける態度はむしろ寛容であり、そうした欲求はその時代には適当なものであったと考える。
[7]そこで、子供時代の欲求の対象は、「子供時代にとっての価値」をもつが、「人生全体の観点からの価値」はない、と言える。これなら、子供時代の成功・失敗に対し「値引きつつ寛容」という態度をうまく説明できる。[8]この「時期相対的な善」(period-relative human goods)と「全体的な善」(overall human goods)の区別は、善を個人だけではなくある時期での個人へと二重に相対化する。[9]同様の時期相対性は、子供時代以外の時代に対する態度の説明にも役立つ。たとえばローマ人は、哲学は若い男子には適しているが十分成人した男には適さないと考えていた。この態度も価値の時期相対性によってよく説明できる。また、老人のゲートボールで勝ちたいという目標に対する私たちの態度も、子供時代の目標に対する態度と同じよう扱える。[10]この手の老人の活動に対して、「ゲートボール好きになってしまった(reduced to)」などと言われる。この「しまった」という表現は欲求の不合理性を意味すると解釈されるかもしれない。だがその必要はない。高齢期はそれ自体で悲痛だとするなら、この表現は当該の人物が下降局面にいることを示しているにすぎないとも考えられる。そして局面にとっては、ゲートボールに勝つことは適当である。[11]他方で、「人生の盛り」(prime)と呼ばれる時期には、人生の中でもっとも重要だと見なされる欲求が多く生じる。むしろ、人生の諸時期という比較的中立的な枠組みの中に、人生には「盛り」があるという私たちの感覚を重ねあわせた結果として、時期相対的善というアイデアが生じるとさえ言えるかもしれない。
III
[1]以上で確認された選好は、「純粋な」時間選好ではない。すなわち、前の/後の時間をそれ自体として選好するものではない。むしろそれは、特定の時期に特徴的な関心への選好であり、そうした関心が時間的に前/後に位置しているのは、論理的な意味では、偶然である。[2]しかし、純粋な時間選好もまた、人生の良さにかんする私たち思考の中にあらわれる。このことは、人生の後の方に来るものに対する選好の事例に見いだすことができる(ロールズは、人生の前の方に来るものに対する選好の例にばかり集中していた)。人生のより後に来るものには、より大きな重要性が付与されるのが普通である。[3]すなわち、若い時不遇で老年期に成功した人生と、若い時成功し老年期不遇な人生では、前者の方が良いと思われる。これは、後に来る善への時間選好の存在を示唆する。[4]この現象を、善の最大化の観点から説明しさることもできるかもしれない。例えば、「期待の快楽は想起の快楽より大きい」という点に訴え、後に成功した人生のほうが期待の快楽が大きいためより良いと考えるのはどうか。しかしこの説明はうまくいかない。というのも、若い時不遇な人は将来の成功を期待することを諦めやすいし、若い時に成功した人はもう一度成功することを期待するだろう。そうすると、若い時不遇で老年期に成功した人生と、若い時成功し老年期不遇な人生では、前者の方が期待の快楽は小さいはずだ。にもかかわらず私たちには、前者の人生の方が良いと思われるのだ。[5]日常の言語的にも、後年の成功は若い時の失敗を「埋め合わせた」と言えるが逆は言えない。これは、先立つ悪を後なる善で埋め合わせることはできるが逆はできないという信念の表れではないか。[6]センは、人生の良さの基準として善の最大化だけでなく時間的平等があると示す例としてリア王をあげていた。しかしリア王の人生の悪さは、その最期がいかに悪かったかによっても説明できる。また、リア王とは正反対の、幼少期が酷く老年期が幸せな人生は良い人生だと思われるが、これはセンの基準では等しく悲劇的な人生だということになってしまう。
[7]では、「人生の時期」時間選好および「純粋な」時間選好が、哲学者たちの見解にどう影響するかを見ていこう。
IV
[1]ロールズは、社会を超個人とみなす点で功利主義は誤っているが、時間選好を否定する点では正しいと考えていた。前者はパーフィットによって否定されたが、後者もここまでの議論によって否定される。[2]他方でパーフィットが功利主義を支持する根拠としている原子論的な人格説は、時間選好とは整合しないかもしれない。〔たとえば、原子論的人格説によれば時間的に後の自分は相対的に重要ではなくなるはずだが、これは人生の後に生じる善に対する純粋時間選好と整合しない〕
[3]行為の理由にかんする時間平等主義的な理解(ネーゲル)に対しても、時間選好は問題をもたらす。[4]ネーゲルによれば、行為への理由は本質的に時制を欠いており、人生全ての時期において作用する。たとえば、私が、将来、イタリアに行く理由を持つなら〔(今は持っていない)〕、私は今イタリア語を勉強すべきである。これを否定することは、「人生の全ての時間が等しく単一の人生を構成している個人」という構想、人生の時間的統一の感覚を否定することになるという。[5]しかし、こうした理由の時間移動が成立しない事例はある。私たちは、子供の頃の失敗と大人になってからの失敗を同じように後悔しない。子供時代の目標や関心は値引かれているからだ。だからといってこれが、過去の自分と今の自分が乖離した異常事態だということは全くない。[6]この現象をネーゲルの観点から説明するには、望まない依存者とのアナロジーを用い〔、子供期の目標は不合理なのでその失敗は後悔の理由にならないと論じ〕るしかないと思われる。だがこのアナロジーは成立しないのだった。むしろ、子供期相対的な善は、子供期相対的な行為の理由を与えるものだと考えられる。こうした理由は、後の適切な後悔や満足に対して何の痕跡も残さない。[7]同じことは老年期にも言える。ゲートボールに勝つことが老年期相対な善であれば、それは老年の人にはゲートボールを練習する理由を与えるが、若い人には与えない。
[8]ネーゲルに反対している哲学者にウィリアムズがいる。ウィリアムズによれば、行為の理由は本質的に(動く)現在の観点からのものであり、将来ゲートボールをする理由をもつという事実は、その練習をする現在の理由を与えるわけではない。[9]ネーゲルの主張への反論として、本論のものとウィリアムズのものが不整合だとは思われない。ただし、ウィリアムズの現在へのこだわりが、本論の見解と異なる主張につながる場合がある。ファシズムが盛り上がる最中、これまで政治にほぼ関心がなかった芸術家が、このままだと自分はじきに反ファシズムの活動家になるだろうと考えたとせよ。ネーゲルによれば、この人は今活動の準備を始める理由があり、ウィリアムズによればそれはない。だが本論の見解はこの点に中立である。というのも、将来の政治的活動が時期相対的な価値を持つか否かがわからないため、理由の時間移動に反対する根拠がない。ただし、仮にこの事例で芸術家に準備を始める理由がなく〔、そしてそのことの説明として〕ウィリアムズの見解が正しいとしても、本論の見解はウィリアムズが扱わない現象を説明することができる。それは上述の、人生全体の良さを決定するにあたって、ある時期が他の時期よりも重要視されるというものだ。
本論の見解とウィリアムズの見解は別の課題に答えるものなのかもしれない。[10]ただ、本論の見解は、ウィリアムズがシジウィック、ロールズ、ネーゲルらと共有している誤った二分法を訂正することができる。すなわち、「人生の全ての時間を等しい地位で扱う」と「現在に特別な地位を与える」の二分法である。
V
[1]おそらく、時間選好を否定したい主要な動機は、それが人生の統一性を崩すというものだろう。本論の見解もこの誹りを受けるべきなのだろうか。[2]まず、後に来る善に対する純粋時間選好を考えよう。こうした選好が、人生の特定部分を人生の一部として扱っていないとは言い難い。むしろ、それを人生のリアルな一部として取り扱っていないという批判ならありうる。だが、この反論はあまり力を持たない。というのは、リアルさ(現実性)には完成の度合いに応じた程度があるという時代遅れの見解に近づいているからだ。[3]より積極的な擁護もできる。後の幸福や成功への選好は、人生の後の方によって過ぎ去った時間が埋め合わされてほしいという欲求の反映なのかもしれない。これは、人生が有限であるという認識から生じるものだ。もし人生が無限ならば、人生の前/後という区別に重きは置かれないだろう。このように純粋時間選好が人生に含まれる善のバランスを維持するものなのだとすれば、それが人生の統一性を無視しているという批判は無効である。
[4]次に時期時間選好を取り上げる。本論では、時期相対的な善に対して私たちが重要性を置かないことを正当な態度だと考える。こうした態度は私たちを人生のリアルな部分から切り離すと批判されるかもしれない。しかしこの態度こそ私たちの普通の考え方なのであり、私たちの普通の自己理解に基づいて形而上学や道徳上の見解を擁護するという理念を維持するならば認めるしかない。
統一性が失われるという不安に対しては、有機体の成長と衰退を引き合いに出すのがいいかもしれない。[5]私たちは、動物や植物はそのライフサイクルの中で成長する時期と衰退する時期があると考える。そしてある動植物がその動植物らしくある特定の時期があると考える。だがそう考えるからといって、動植物に時間を通じた統一性を帰することが不可能になるわけではない。人生の統一性もこのようなものなのだ。