えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

人生のかたち現象 Feldman (2004)

Pleasure And the Good Life: Concerning the Nature, Varieties, And Plausibility of Hedonism

Pleasure And the Good Life: Concerning the Nature, Varieties, And Plausibility of Hedonism

  • Fred Feldman (2004). Pleasure and the Good Life: Concerning the Nature, Varieties, and Plausibility of Hedonism. New York. NY: Oxford University Press.
    • Chapter 6 Hedonism and the Shape of a Life

「人生の価値はその部分のもつ諸価値の和である」という見解へ反対する際、「人生のかたち現象」と呼べる現象がひきあいにだされることがある。しかしこの反論は成功していないと本章では論じる。

6-1. 人生のかたち

 [124][125]最初は良いが後に悪くなる人生と、最初は悪いが後に良くなる人生を比較した時、多くの人は後者の方が良いと考えるだろう(Brentano, Chisholm, Lemos, Slote, Velleman, C. I. Lewis, Bigelow, Pargetter, Campbell, Brannmark, et al.)。[126]この「人生のかたち現象」から、重要な要素を抽出してみよう。

 人間にとって善である特徴Gと、悪である特徴Bがあるとせよ。GとBには大きさ(magnitude)と「最小噴出」がある。たとえば、Gを感覚的快、Bを感覚的苦痛だとすると、感覚の強度が大きさにあたる。また最小噴出の快苦とは、人が適当に短いあいだ比較的一様な快苦を感じているというエピソードにあたる。一噴出の価値は、その大きさによって完全に決定される。いま、BとGの最小噴出(数と大きさ)の点で等しいが、それらの時間的順序が異なる2つの人生がある。[127]すなわち、一方では噴出の強度が徐々に増加し、他方では強度が徐々に減少する。前者を「上昇人生」(UHL)、後者を「下降人生」(DHL)と呼ぶ。すると、UHLはDHLより良いという考えに、多くの人は共感するだろう。また、二つの人生が、関連する点でUHLとDHLに似ている時、この人生の組は「人生のかたち現象」の例となっている、と言おう。また、人生の内在的価値はその人生における最小のGおよびBエピソードの内在的価値の和に等しいとする見解を、「加算的」見解と呼ぶ。

 さて、人生のかたち現象はあらゆる加算的価値論を疑わしくするように見える。なぜなら、人生を構成する最小価値単位が持つ価値の総和が等しいのに、価値の点で異なる二つの人生がありうることになるからだ。

 ところで、本書でフェルドマンが定式化した快楽主義的価値論はどれも、人生の価値はその人生がふくむ快苦エピソードの価値によって「完全に決定される」としていた。ただしこれは、人生の価値はそれが含む全ての快苦エピソードの価値の総和だということではない.。[128]そのような価値論は「二重カウント」を含んでしまう。すなわち、たとえば1分間の快エピソードは、1秒間の快エピソードを60含んでいる云々。これら全てのエピソードの価値を単純に加算すると、全体の価値としては明らかに高い値が出てしまう。この問題は「最小快苦エピソード」の概念を導入することで解決される(8章)。これを踏まえると快楽主義は、「人生の価値はそれが含む全ての最小快苦エピソードの価値の総和である」とする。ただし、いずれにせよ、快楽主義にとって人生のかたち現象は問題であるように見える。

6.2. 人生のかたちと内在的態度快楽主義

 ここでは[129]フェルドマンが好む「内在的態度快楽主義」を例に問題を検討していく。

  • 内在的態度快楽主義(IAH)

i)あらゆる内在的態度快エピソードは内在的に良い。あらゆる内在的態度苦エピソードは内在的に悪い
ii)ある内在的態度快エピソードの内在的価値は、そこに含まれる快の量に等しい。ある内在的態度苦エピソードの内在的価値は、そこに含まれる苦の量に等しい。
iii)人生の内在的価値は、その人生に含まれる最小内在的態度快エピソードと最小内在的態度苦エピソードの内在的価値の総和に等しい(加算性に相当)

この説のもとで、DHLとUHLは図1のように表せる。それぞれの人生は7つの快エピソード(e1, e2...)を含む。実践は、快エピソードにおける快の総量を示す。点線は、快エピソードの価値の総量を示す。各エピソードにおける快と価値の量は等しい。両方の人生における快楽の総量は等しいと約定する。

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図1

6.3. 快楽主義は傷つかない

 以上の他に、DHLとUHLについて一つ知るべき点が一つある。それぞれの人生を送る人は、自分の人生の快楽の軌跡が上昇/下降していることに気づいているだろうか? もし気づいているとして、それを気にかける(care)だろうか? つまり、上昇していると知って喜んだり、下降していると知って失望したりするか?

[132]もし気にかける場合、そうした人々の人生は追加の態度的快苦を含むことになる。このとき図1は不正確であり、事態は図2によって表されるべきだ。DHLのほうには、苦エピソードe8、e9、e10が足されており、これは自分の人生のかたちを知ったときの追加の苦痛を示す。またUHLのほうではe5以降のエピソードが含む快の量が増加しており、これは自分の人生のかたちを知ったときの追加の喜びを示す。[133]この結果、UHLはDHLよりも価値が大きいことが、IAHでも説明できる。

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図2
[134]気にかけないか、そもそも人生のかたちに気づかない場合はどうだろうか。この場合、図1の描写は適切である。このときには、実際、UHLがDHLより良いと考える理由は存在しない。むしろ、何故良いと思うのか? そう考えたくなる誘因を3つ挙げて、それぞれを検討してみたい。

  • (1)

 [135]2つの人生を比較する人は、自分の人生がDHLなら嫌だしUHLなら好ましいと考える。そこで、UHLを生きるほうがより快が大きいと考えてそちらを選んでしまう。これはすぐ上で検討した混乱である。今はそのような追加の快苦は存在しないと約定されていたのだった。

  • (2)

 DHLと比べてUHLはある種の卓越性、美、適切さを備えていると思われるかもしれない。そうすると、DHLのかわりにUHLが生じる世界はより良いものだと考え、したがってUHLのほうがより良いと判断するかもしれない。だがここに含まれる混乱は、人生が世界にとってもつ内在的価値とそれを生きる当人にとってもつ内在的価値の取り違いである。[136]世界に最大の善をもたらす人生が当人に最大の善をもたらす人生であるとは限らない。そして、IAHは当人にとっての善にかんする理論であるから、UHLが世界の内在的善により大きく貢献するとしても、それはIAHへの反論にはならない。

 内在的価値に2つの尺度を認めるのを理論的倹約の点から避けたいと思う人もいるかも知れない。その場合、内在的価値の担い手を基本単位(快苦エピソードなど)とし、それ以上の事物(人生、可能世界、行為の帰結など)の内在的価値はそれを構成する単位の内在的価値のみにより決まるとされる。この時、快エピソード1単位は人生と世界に等しく貢献することになるので、〔ある人生の当人にとっての価値と世界にとっての価値が異なるということはありえない〕。だがこの考え方をフェルドマンは支持しない(9章を見よ)。

  • (3)

 事例を少し変更しよう。UHLにおいて人は上昇に気づき追加の快を得る。一方でDHLに快い出来事(ビールとおつまみが美味しかった)を増やし、追加の快苦の量を揃える。[137]この時にも、UHLの方が良いと考える人がいるかもしれない。これはIAHに対する反論になるだろうか? 

 これはデリケートな問題である。最も単純なIAHによれば最小態度的快エピソードの内在的価値は快の強さによって完全に決定される。この時、UHLとDHLは等しく良いことになってしまう。他方で、IAHにはバリエーションがあり、快苦の「対象」の特徴を価値に反映できるものがある。たとえば、快を感じるのにふさわしい事態に快を感じことはより高い価値を持つとして、相応性内在的態度快楽主義(Desert-Adjusted Intrinsic Attitudinal Hedonism)を得ることができる。

 さて、人生のかたち現象に注目する人は、人生のかたちに対する快は価値論的に重要だと思っているのかもしれない。この考えも、しかし適当なバージョンの内在的態度快楽主義で包摂することができる。すなわち、グローバルな対象を持つ快楽ほど価値が高いとすれば良い(全体性内在的態度快楽主義; GAIAH)。[138]GAIAHによれば、UHLはDHLより実際に良い。このことは図3で表せる。DHLでは、e1-e3において快楽の量(実線)よりも価値の量(破線)が小さい。これは、これらのエピソードにおける快楽の対象があまりグローバルでないことを反映している。他方、UHLのe5-e7では快楽の量(実線)よりも価値の量(破線)が大きい。これは、これらのエピソードにおける快楽の対象がグローバルであることを反映している。

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図3
 このように、純粋に加算的でありながら、人生のかたち現象と整合的な態度快楽主義は存在しうる。上昇・下降以外にも様々な人生のかたちに訴えた加算主義への反論が考えられる。だが任意の全体論的特徴Fに訴える反論に対してもここまで同じように答えられる。すなわち、まず当人はFをケアしているか。しているならばその分の快が加算されるので、Fをもつ人生のほうが実際によりよいと説明できる。していないなら、Fはその人生の当人にとっての価値を増していない〔すなわち、Fをもつ人生のほうが良いという判断のほうが誤りである〕。