えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

最大の快は最大の苦痛を上回らない Allen (1877)

https://archive.org/details/physiologicalae00allegoog

  • Allen, G. (1877). Physiological Aesthetics. London: Henry & King
    • Chapter II. Pleasure and Pain
      • §2 Pain
      • §3 Pleasure

痛みから快へ話を移すにあたり、アレンはベインが提起する次の法則に言及する。

「快い状態は全てないし一部の生命機能の増強に、苦痛な状態は全てないし一部の生命機能の低減に伴っている」

前節で見たように、この法則のうち痛みに関する部分はそれなりに適当である。だが快に関する部分には問題が多い。というのも、生命機能の「増強」に快が伴うなら、最も大きな快は消化や休息に伴うはずだが、実際にはそうでないからだ。

 日常的な観察から言えば、有機体の器官がその固有の機能を妨げられずに遂行するとき、快が生じる。このことは、四肢や栄養・生殖器官を積極的に動かしている場合だけにあてはまるものではない。そうした積極的な活動がなくとも、循環や呼吸、消化などの機能が妨げられずはたらいている場合には、仄かな背景的な快が生じる。これは「大規模な痛み」に部分的に対応するものだ。ここから、ベインの誤りが訂正され、ふたたび蒸気機関のメタファーで説明が行なわれる。

 ベイン教授は快を有機体の効率性の増強に結びつけていた。だがよりよい見方は、快を有機体の一部ないし全体の正常量の活動[normal amount of activity]の随伴物と見なすものであろう。蒸気機関のメタファーをもう一度使えば、快というのは石炭や水、オイルの補給から生じるのではなくて、全ての部品の調和したはたらきから生じるのである。(p. 22)

また、快が活動から生じる以上そこではむしろ生命機能の低減が生じるとアレンは指摘し、そうした消耗が快になるか苦痛になるかは消費が回復力を上回るか否かによって定まると述べる。

 アレンはここから快の強度について話を整理していく。筋肉や感覚器官の行使から生じる快は、普通は仄かな快しかもたらさない。はっきりとした快が生じやすい事例は二つ。まずは、食物や休息が十分で有機体全体が健康な状態にあるとき。この時神経に対する全体的な刺激が「広範な快」をもたらす。第二は、活動が長期間中断していた器官が、栄養状態十分の状態で刺激されたとき。これが「鋭い快」をもたらす。皮膚のように常に刺激されている器官は弱い快しか生まないが、逆に栄養・生殖器官は強い快を与える。

おそらく快の量は、関係する神経繊維の数とは正比例し、興奮の自然な頻度とは反比例するのだろう。 (p. 25)

 以上の考察から、快と苦の強さについて以下の結論が導かれる。

広範な快は、広範な痛みの強度には滅多に、あるいは決して達しない。というのも、有機体は栄養不足・消耗状態についてはどこまでも落ち込みうる一方で、桁外れに効率的にはたらくことはありえないからだ。同様に、どの特殊な器官ないし神経網も、極度の「鋭い痛み」を生み出すような何らかの猛烈な破壊や消耗を被りうる。これに対し、「鋭い快」をもたらす条件、つまり栄養を十分に供給されかつ適切な刺激が長期間欠如しているという条件がそろう場合はほとんどない。以上のことが、最大の快の強さは最大の痛みの強さに届かないという平凡な経験を説明する。(p. 26)