えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

John Harris vs Persson & Savalescu Harris (2014)

How to Be Good: The Possibility of Moral Enhancement

How to Be Good: The Possibility of Moral Enhancement

  • 本書は、モラルエンハンスメントをめぐって現在進行中の議論に寄与するものでもある。ここでは特に、ハリスと、Ingmar Persson & Julian Savulescu(P&S)との論争を取り上げる。P&Sは近年、危害をなすことは、同程度の危害を防ぐことや同程度の良いことをなすことよりも簡単だという一般的な非対称性を主張している(P&S 2013)。[134]他方でハリスは、この主張は明らかに誤っていると考えている。

9.1 機会をつかむ

  • P&Sは次のように論じる——私たちの多くは車を持っているため、多数の人を簡単に轢き殺す機会が毎日ある。しかし同じ数の命を救う機会を毎日持っている人はほぼいない。なるほど、募金によって多くの人命を救えるかもしれない。しかし、それが可能なのは、私たちがたまたま既に平和で豊かな状況にいるからで、この状況は多くの良き人々の働きによって実現したものだ。従って私たちは、募金による救命の全功績が自分にあると主張することはできない——。[135]だが、募金と同じことは害についても言える。車で人を轢き殺す機会も、たまたま私が平和で豊かな状況にいるから与えられているものだ云々。

9.2 どのくらいモラルエンハンスメントすればいいのか

  • [136] さらなる問題として、もし害をなすほうが良いことをすることより本当に簡単だとすると、P&S自身のモラルエンハンスメント擁護論の魅力が褪せてしまう。というのもP&Sがモラルエンハンスメントを推奨するのは、それが科学技術による終末的危害を防げると彼らが考えているからだ。ということは、まさにモラルエンハンスメントによる人命の救済は、科学技術による人命への危害と同じくらい容易でなければならないはずだ。なるほど、薬物によってモラルエンハンスメントする堅固なシステムをつくるのは簡単ではないかもしれないが、一度できてしまえば、良いことをするのは極めて簡単になるだろう(車の例と同じ)。従って、モラルエンハンスメント擁護論のほうをとるなら、非対称性の主張は諦めなければならない。
  • ここにはさらなる問題もある。[137] 実際のところ、いくらモラルエンハンスメントが容易になるとしても、我々はポリオワクチンの経験から、この種の予防措置を普遍的に行き渡らせることはできないと分かっている。他方でP&Sは、たった一人の狂信者や愚者によっても世界の破滅がおこりうると信じているから、モラルエンハンスメントは普遍的でなければならないのだ。

〔※つまり、P&Sのエンハンスメント擁護論は、エンハンスメントと大量破壊兵器誤用の容易さの対称性を前提としている。このためP&Sは非対称性を主張することはできない。しかし実際問題として、この事例については非対称性があるため、対称性を前提するP&Sの擁護論は機能しない〕

  • ハリスは、モラルエンハンスメントに反対ではない。ただ、現在の証拠から言って、モラルエンハンスメントは道徳性を増強しないのではないかと危惧している。とくに、より有望な選択肢(〔認知的エンハンスメント〕)があるのに、なぜそれを不可能にしてしまう道を選ぶのか。なるほど近年のP&Sは、モラルエンハンスメントと認知的エンハンスメント両方を使う道もあると示唆している。[138] だが元々P&Sは、認知的エンハンスメントによって加速された科学の進歩は大量破壊兵器誤用の可能性を高めてしまい、それに対抗する手段こそモラルエンハンスメントだと述べており、〔認知的エンハンスメントとモラルエンハンスメントを対立させるような書き方をしていた〕(P&S 2008)。確かによく読めばP&Sは、科学は「ある意味で」〔、つまり大量破壊兵器を生み出す点で〕悪いと書いているが、ではどういう別の意味なら良いのか説明していなかった。そこでハリスは勘違いして、P&Sはモラルエンハンスメントが発展するまで科学の進歩と認知的エンハンスメントを止めろと主張していると思い込んでいた(Fenton (2010) にも同じ誤解をさせている)。今は誤解が解けて嬉しい。

9.3 エンハンスされない二分法

  • P&Sはハリスに反し、モラルエンハンスメントが自由を減らすことはないとして、次のような二分法の議論を提示している——[i]一方で両立論的な自由が問題の場合、[139] モラルエンハンスメントしようがしまいが行為は完全に決定されているので、モラルエンハンスメントが自由を減らすことは無い。[ii]他方で非両立論的な自由が問題なら、モラルエンハンスメントされても私たちは非両立論的自由を発揮できるはずであり、モラルエンハンスメントが自由を減らすことは無い——。だが上述のように、決定論が脅かす自由はモラルエンハンスメントが脅かす自由とは異なり、〔ハリスが問題にする「日常的な自由」は後者である〕。仮に決定論が正しくても、行為がどのように決定されるかによって〔日常的な〕自由は奪われたり奪われなかったりするのであり、[i]は成り立たない。
  • P&Sは、〔エンハンスされる〕道徳的傾向とは利他性と正義感だと主張する。だが正義感は、極めて理論的負荷のかかるものだ。〔だからこそ、熟慮が重要になってくるのであり、〕熟慮をバイパスして道徳判断に至るようなモラルエンハンスメントは避けるべきだとハリスは考える。[140] また、モラルエンハンスメントに関連すると今日言われる化学的・生物学的方法は、いわゆる「向社会的」情動を標的にしているが、こうした情動は近視眼的にしか働かないという点もハリスは懸念している。〔とはいえ、〕ハリスはモラルエンハンスメント自体に反対しているわけではなく、P&Sとの見解の相違はそこまで大きくないと思う。

9.4 道徳推論と道徳判断

  • [141] 情動が道徳的ジレンマを解決したり道徳判断を生み出せると考えるのは、内臓は思考の器官だと考えるのと変わらない。判断とは、結論へ向けた推論や議論に関係するものであり、「感じる」ことができるものではない。〔ここで、判断と、その判断の帰結を区別しよう。〕[142] 道徳判断とは、道徳的理由に従って下される判断であり、直感や偏見や個人的な情動反応は除外されねばならない。なるほど帰結について見れば、偏見に基づいた判断でも道徳に関連する帰結をもつことはあるし、また道徳判断が常に良い道徳的帰結をもたらすとは限らない。[143] だが、道徳に関連する帰結をもたらすからといって、その判断が道徳判断になるわけではないのだ(1〜3章も参照)。
  • [144] P&Sやトム・ダグラスは、たとえばグローバルな貧困の問題を極めて個人主義的な仕方で解決しようとしている(Douglas 2014)。彼らは、〔善良な人が良いことを実行するための手段としてエンハンスメントを提示する傾向があるのだ〕。だが7章で見たように、倫理とは悪い人のためにあるもので、何よりグローバルな貧困のような問題を個々人の利他性に委ねるのはバカげている。善良な人の意志の弱さという問題にあまり思い悩むべきではない。グローバルな貧困には国家のようなグローバルなレベルでの解決が必要だ。P&Sがモラルエンハンスメントの実装にあたって考えるべきなのは、こうしたグローバルなレベルの事柄なのだ。

9.5 人々に力を

  • [145] 今日は見逃されがちだがラッセルは気づいていたことに、人々の豊かさ増すことで大量破壊兵器へ依存する傾向は減る(Russell 1930)。モラルエンハンスメントの手段ということであれば、行き渡った教育、貧困の撲滅、そして豊かさこそ一番有望だとハリスは考える。もちろん、他の手段を無視すべきというわけではないが、道徳的反省、道徳判断、そして道徳的進歩のために必要な能力を台無しにするような方法を用いるのは自己破滅的である。