えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

使用/言及区別、コミットメント、翻訳の不可能性 Derrida (1987)

ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス)

ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス)

  • Jaques Derrida (1987). Ulysse, Gramophone. Paris. Galilée. (合田正人・中真生訳『ユリシーズ グラモフォン:ジョイスに寄せるふたこと』, 法政大学出版局)
    • Ulysse, Gramophone, 1

 言語を使用する場合と言語に言及する場合で、関連するコミットメント(engagement)のありかたが異なる。使用の場合、まず使用という行為自体への(実践的な)コミットメントがあり、同時に内容に対するコミットメントがある。言及の場合には、言及という行為自体へのコミットメントはあるが、内容に対するコミットメントは保留されている。つまり、使用には行為のレベルと内容のレベルで二重のコミットメントがあるが、言及には行為のレベルのコミットメントしかない。

 そして、何かにコミットメントするということは、何かに署名すること、何かを肯定することだと考えられる。

 以上の点は、翻訳の不可能性の問題にかかわってくる。フランス語によって、フランス語の使用を肯定する内容をもつ主張をおこなうことを考えてみよう(『方法序説』末尾が例として挙げられる)。この主張を行なう者は、まず行為のレベルでフランス語の使用にコミットメントがある。同時に、主張内容であるフランス語の肯定にもコミットメントがある。従ってこの言明では、行為のレベルと内容のレベルの両方で、フランス語の使用が肯定されている。他方で、同じ言明を日本語に翻訳して主張したとしよう。すると、行為のレベルでコミットメントしているのは日本語の使用になってしまうため、フランス語の肯定は内容レベルにしか残らなくなってしまう。こうして、元の主張が持っていた二重の肯定というポイントが失われてしまった。従って、「ある言語の自己言及的な肯定は翻訳不可能」である。