How to Be Good: The Possibility of Moral Enhancement
- 作者: John Harris
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr
- 発売日: 2016/06/07
- メディア: ハードカバー
- この商品を含むブログ (3件) を見る
- John Harris (2014). How to be Good. Oxford University Press
- 2. What It’s like to be good: Individual responsibility
- 4. Moral Enhancement and Freedom(前半) ←いまここ
- 5. Taking Liberties with Free Fall
- 近年の生命倫理学はアンガージュマンの倫理学になってきており、これは重要なことだ。なぜなら、環境破壊や病、科学技術の暴走から人類や地球を救うための早期の行動が必要だとわかってきているからだ。こうした背景に照らすと、モラルエンハンスメントは問題に立ち向かう騎士のように見える。だがこの章では、それは誤解であると主張する。
- ミルトンの『失楽園』によると、神は、人間が堕落したことで責められるべきは人間自身だと言う。
だれゆえか?
彼でなくだれの? 大恩を忘れしものよ、私から
得られるものを全て得ながら。私は彼を義とし正とし、
立てるよう、しかし落ちていく自由も与えた。
- この行でミルトンは、神でさえも人間を自由にしないことはできなかったと言っている。自律というのは、堕落を自ら選ぶ自由を要求する。しかしその同じ自律が、我々を立たせるものでもある。
- ここから、モラルエンハンスメントに反対する次のような議論を引き出せるかもしれない。モラルエンハンスメントは、私たちから「立てるよう、しかし落ちていく自由」を奪うものである、と。だがこの議論はあまり正しくないだろう。というのは、エンハンスメントという文脈ではほとんど話題にならないものも含め、実際のところ道徳を発達させる(エンハンスすることを含む)ための方法は非常に多様であり、〔それらがみな自由を奪うものだとは到底言えないからだ〕。
- 道徳発達のための伝統的な方法には、正しいことと不正なことの区別を学ばせる、他人に危害を加えないよう教える、他人を尊重する習慣を身につけさせる、といったものがある。また、自学自習、幅広い読書、自然や社会に触れさせる、メディアに触れさせるといったより一般的な教育も、道徳発達、改善、エンハンスメントのための重要な道具である。
4.1.1 モラルエンハンスメント
- モラルエンハンスメントについてまず問うべき問いは、それは何なのか、またそれは倫理的な知識とどう関係するのかという点だ。
- 倫理的知をもつとは、「良くあるという点について実際により良い存在である」ことではなく、むしろ良いことについてよく知っており、良いことをなすとはどういうことかを理解しているということだろう。「よいことを知る」と「良いことをする」の間には、自由意志の領域がある。自由無しでは良いことは選択されないし、そのときには美徳も存在しなくなる。それしかできなかったことをしても、そこに美徳はないからだ。
- 共感や知識がある人が、良いことをよりよく行なうとは限らない。理由は非常に多岐に渡るが、例えば意志の弱さにまつわる問題がある。意志の弱さは、道徳的な決心の弱さに由来するものも厄介だが、〔仮に道徳的な決心が堅固でも〕我々には道徳的であること以外にも様々な目的があるという事実に由来するものも等しく厄介である。
- また別に、モラルエンハンスメントに関する文献であまり議論されない非常に根本的な問題がある。それは、人を不道徳に導くように思われる特性と、美徳のため、ひいてはいかなる道徳的生にとっても必要だと思われる特性は、実は同一であるという問題だ。
- トム・ダグラスによれば、モラルエンハンスメントによって人は「以前より道徳的に良い動機をもてるようになる」。彼は良い動機とは何かを特定することに特に困難があるとは思っておらず、少なくとも2つの「反道徳的情動」を特定している。「特定人種への強い嫌悪」と「暴力的攻撃へ向かう衝動」である。こうした情動の程度を減らすことが、一定の状況下では、モラルエンハンスメントだとされる。
- だがこの見解には2つの問題がある。第一の問題は、「特定人種への強い嫌悪」などが、「生の」、本能的な反応だとは考えにくいという点だ。むしろこうした反応は誤った信念に基づいていると考えられる。誤った信念に対抗する一番明確な方法は理性への訴えと教育であり、その他の認知的エンハンスメントも助けになるかもしれない。
- パーソンとサヴァレスクは、人間は他人を人種で自動的にコード化していると述べている。これが事実で、またそうしたコード化に介入することが可能だとしても、そこに道徳的エンハンスメントの糸口を見るのには問題がある。まず、人種差別に関して一番問題なのは差別的行動であり、信念ではない。偏見というのは誰しも持っており、最も重要なことは、その存在を認識し、それが恥ずべきことだと学び、それに基づいて行為しないようにすることだ。従って、人種差別的信念が悪い帰結を生まないようにするためには、認知的エンハンスメントがたすけになるかもしれない。さらに、人種差別はそこまで広がっているものでもなく、またその程度はここ数百年のうちに教育や法律の力によって劇的に低減されてきた。生物学的・遺伝学的手法によらずとも、人種差別は減らせる。実際生物学・遺伝学的手法は、絆一般を弱めたり、人を人種と無関係なものにするなど、望まない帰結をもたらしうるのだ。
- 第二の問題として、「強い嫌悪感」は、健全な道徳性を構成する場合がある(Strawson)。ダグラスの「こうした情動の程度を減らすことが、一定の状況下では、モラルエンハンスメントだ」という主張は、実際のところ極めて穏健な主張で〔目下の指摘によって直接否定されるものではない〕。だが、〔この主張を実質的に有意味なものにするには、〕良いものに対する嫌悪感ではなく邪悪なものに対する嫌悪感だけに選択的に介入することができなければならない。ハリスは、そしてそうした介入はできないのではないか、実際に可能な介入は、本来的な道徳的反応を弱める結果をもたらしてしまうのではないか、と考える。もちろんもし可能であれば、それは歓迎すべきことではある。