えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

自分の性格なんて変わらないんだ……もう駄目だ……と思ってる人の自由意志と苦しみについて Dweck and Molden (2008)

Are We Free?: Psychology and Free Will

Are We Free?: Psychology and Free Will

・心理学的に言うと、自由意志とは選択や行為者性や自己決定の知覚である。この知覚のあり方は、人が自分や外界をどう心的に構成するかに依存する。本章ではまず、「自己理論」の違いが、異なる自由意志経験につながると示す。続いて、自己理論が道徳判断に与える影響を見る。最後に人間はどの程度自由意志を持つか問題に取り組む。
・両立問題に取り組む哲学者は「物理法則」だけを考察しがちだが、「人間本性の法則」へも注目すべきだろう。特にこの問題は、人間の性格とその理解に懸っている部分がある。

背景:人間の行為者性と自由意志の経験

・歴史上、人は自らの運命を外的な状況に支配される本質だと長いこと理解して来た。しかし、特にルネサンスから(Cassirer Kristeller & Randall 1948; Heller1981)啓蒙を経て(Gay 1969)、西洋の社会は個人の中により多くの力を位置付けるようになった。
・これは良い事だったか? 近代の心理学によれば、少なくとも西洋においては、個々人の中に力があると信じることは、心理的な適応や個人的な成功を予測する(Rotter 1966; Syan & Deci 2000; Heckman & Schultz 1995; Lazarus 1991)
・しかし筆者らの研究は、力を人の内におくと言っても様々な形態がありえ、必ずしも自由意志や行為者性の感覚を増加させないものもある事を明らかにした(Dweck 1999; Molden & Dweck 2006)。従って、自由意志の経験に関する信念を調べる際には、<内なる能力がどのようなものだと考えられているか>という点にも注目しなければならない。

自己理論

・この点に取り組む際筆者は、知性や性格といった人の基本的属性が、本質的で静的な本質と信じられる(「本質理論」)か、動的で文化の影響を受けるものと信じられる(「錬成理論」)か、という点に着目した(Dweck 1999, Dweck & Leggett 1988)。これらの理論は、「人は物事を違う風に行うこともできるが、自分の重要な部分は本当は変えられない」などの文からなる質問紙で測られる。人は約半々でどちらかの理論を既に持ち、理論と能力レベル・教育・認知的複雑性等に相関はない(Dweck, Chiu & Hong 1995)。この信念は強固だが(Robins & Pals 2002)、実験的に誘導する事も出来る(Dweck 1999)。

自己理論と、内的特性の決定的影響に関する信念

・本質論者は、本質的な特性が予測可能な形で行動の直接的原因になるとも信じる(Chiu Hong & Dweck 1997, Hong 1994)。一方錬成論者は、(制御可能な)思考や感情や動機が行為の大きな原因だと考える(Hong 1994)。内的要因は本質論者にとってはパーソナルな制御が効かないが、錬成論者にとってはより影響を被りやすい。
・例えばChiu, Hong, Deck (1997) は、「平均的に、ヘンリーはエドワードより攻撃的だ」という情報を示し、未来な様々な状況でヘンリーがエドワードより攻撃的でありそうかを尋ねた。すると、本質論者の予測は錬成論者の予測よりもかなり強力だった。
・この違いは自分の行動の説明にも表れる。重要な目標達成が妨げられた時、本質論者は持続的特性の観点から(「能力がなかった」)、錬成論者は専念不足の観点から(「努力が足りなかった」)説明しがちである(Blackwell Trzesniewski & Dweck 2007; Robins & Pals 2002)。更に本質論者は失敗の後、努力は不毛で、必要な能力の欠如を示すさらなる証拠だとして貶す(Blackwell et al. 2007)。この原因判断のパターンは実験状況だけでなく人生でもみられる(Blackwell et al. 2007; Robins & Pals 2002)。
・こうした知見は、特性や能力の本性に関する信念の違いが、決定や行為における自由意志を知覚する可能性を根本的に変えているだろうと示唆する。

自己理論の心理的帰結

・哲学者には自由意志幻想やめろ派がおり(Strawson 1986)、さらに自由意志信念を失っても平気派(Honderich 1993; Pereboom)と、自己の価値や達成感が失われるから幻想でも持っておいた方がいいよ派(Smilansky 2002)がいる。そこで、「本質論者は自らの心のあり方が自己決定に課す制約にどのくらい苦しむのか」を考えよう。

困難と失敗をともなう自己決定

・彼らが苦しんでいる事は、失敗に直面した本質論者が「絶望的」反応(否定的情動反応、離脱症状、二度と同じ事はしない)を示す点に明らかである(Beer 2002; Kammrath & Dweck 2006; Knerr Patrick & Lonsbary 2003)。さらに、将来にとって重要でも難しい課題には自己防衛するようになる(Hong et al. 1999; Nussbaum & Dweck in press)。
・他方の錬成論者は、「習熟志向」の反応(元の目的に再び専念するための積極的なステップをとる)を返す(Dweck & Leggett 1988; Blackwell et al. in press; Beer 2002)。
・つまり、本質論者は困難に対し行為者性の放棄で反応し、錬成論者は行為者性の再主張で反応する。ではこれは人生に重要な違いを生むだろうか?
・Blackwell et al. (2007) は両論者の小学生から高校までの数学の達成を長期的に調査した。すると、中学入学までは大差がないが、それ以降は錬成論者の方が良い成績を収める。また、学生に錬成理論の事を教えると、中学及び大学での難しい過程への動機と成績が上がった(Aronson, Fried & Good 2002; Good Aronson & Inzlicht 2003)。
・絶望/習熟思考のパターンは対人関係にも表れる。錬成論者のビジネスマネージャーは従業員の働き改善のためより多くの追加指導を行うし(Heslin, Vandewalle & Latham 2006)、恋人との衝突が起きた場合も、錬成論者は問題解決のための積極的一歩を踏み出しやすい(本質論者の場合は縁が切れやすい)(Kammarath & Dweck 2006)。
・以上より本質論者は困難に対し非活動的で自己肯定的な反応をすることがわかるが、これはスミランスキーが恐れていたように、実際に自己の価値が下がる事に因る(Robins & Pals 2002)。さらに、本質論者は日常生活で苦悩や鬱の症状を経験することが多く、これは自らの能力に対して否定的な反芻を行う傾向に結び付いているうえ、苦痛が感じられるほど問題解決に従事しなくなる(Baer, Grant and Dweck 2005)。従って、本質理論は行為の選択の知覚を減らし、本質論者はそれに苦しんでいると思われる。

自己理論と道徳的責任

・つづいて、「本質論者の感じている絶望は、他の人の失敗への許しにつながるか?」という点が気になる。哲学者には、自由意志の感覚が減退すると責任が減るよ派(Strawson 1986)と、自由意志退けても責任は信じられるよ派(Eischer & Ravizza; Hondelich1993; Pereboom 2001)がいるが、本質論者と錬成論者の道徳判断を比較した研究は、反直観的な事に、本質論者の方がより厳しく道徳判断をすることを示す。
・例えば被験者に規則違反者のスライドを見せて、非難の程度と推奨する罰の重さを判断させると、本質論者の方が高い(Erdler & Dweck 1993)(この実験では、両群で違反の悪さ・深刻さなどに違いはなかった)。更に、自分自身を被害者だと想像させる実験(Loeb & Dweck 1994)や陪審員の役割を与える実験(Gervey, Chiu, Hong, & Dweck 1999)からは、本質論者と錬成論者で与える罰のタイプとその究極目的が違う事が示された。すなわち、本質論者は「応報」、錬成論者は「教育」を強調する。
・従って、本質論者は特性が人々が別様に振る舞える程度を制限すると考えているのに、その制限された行動に責任を負うべきだとやはり考えている。他方、錬成論者は人の基本的特性は可変的だと考えているのに、道徳判断や加罰に関してあまり厳格ではない(これは、意志決定に至る複雑な心理の理解や悪人の矯正可能性の信念に因るのかも)。

  • 【まとめ】

・自己理論に関する研究は、二つの異なった心的世界の描像を生む
【本質】特性は本質。行為者性の余地は少ない。応報的正義の世界。
【錬成】特性や行為の原因は可変。(失敗後も)行為者性に広い余地。教育や更生の強調

本質‐錬成心理学は自由意志の哲学にどう結び付くか

・本質論者の世界では自由意志は無いか、あるいは難しい/稀であり、この点で本質論者は自由意志懐疑論者と共通点が多い。しかし本質論者は(一見矛盾するが)応報的正義の擁護者でもあった。すると、本質論者は<自由意志ないが、あたかもそれはあって行為には道徳的責任があるように振る舞え>というスミランスキーに近いかもしれない。
・しかし別の解釈もある。彼らは、決定論と自由意志の両立を目指す両立主義に近いのかもしれない。さらに、本質論者はリバタリアンですらありうる。自由意志に従う行為は強烈な意志の力を必要とする稀なものだと考える者がいるからだ(Kane 2005)。
・一方、錬成論者はリバタリアンか両立主義と提携するだろう。それどころか錬成論者は、人間の性格や目標が少なくとも部分的には自分自身によって決定されるというアイデアを擁護する哲学者、すなわちウィギンズやエクストロムらの出来事因果リバタリアンとかなり共通点を持つ(Wiggins 1998; Ekstrom 2000)。あるいは、自由意志が存在するという点から非リバタリアンと非両立主義を同時に論難するメレと提携する事も出来る(Mele 1995 2006)。
・自由意志擁護者と錬成論者は人間が自分の性格や動機を変える力を持つ事から、道徳教育を重視する道徳体系を持つ事が出来る。これは反リバタリアンにとっても魅力的な一面である(Smart 1961)。
・本質論者と錬成論者は、それと響きあう哲学理論を生きながら実践しているとも言える。

5つの自由:それぞれの自己理論によってどれが認められているか?

・自己理論と哲学理論の関係をみる別の方法として、ケインの「5つの自由」を参照する。

【1:行為の自由】欲する行為が出来る能力(古典的両立主義)(※意志の自由ではない)
【2:自己制御の自由】自分の理由と動機を理解し、それに従って振る舞う能力(Frankfurt)
【3:自己制御の自由】正しく良い理由を理解し、それに従って振る舞う能力(Wolf)
―――↑両立主義の自由意志/↓リバタリアンの深い意味での自由意志―――
【4:自己決定の自由】
【5:自己形成の自由】

・この整理の下では、本質論者で自由意志を受け入れるものは1・2・3のどれか、錬成主義は4か5を受け入れるといえる(ただし、強い努力で自己の性格の強力な力に抵抗するという考え方に焦点を当てれば、本質論者も4を受け入れられる場合があるだろう)。

人は自由意志を(どのくらい)持っているのか

・以上を踏まえて、筆者らの知見から自由意志について何が言えるか。ある意味、人が自由意志を持つか否かはどの哲学的見解を受容するか次第である。しかし、性格の可変性についてどう考えるのが最善かにより、我々の自由意志の感覚は大きく変化する。
・まず注意。我々は心理学によって、人間の性格や行動の内的・外的原因を理解するようになるだろう。しかしそれは我々を自由意志の欠如に直面させるものではない。自由意志を崩すのは「制約」(我々を強制するもの)であり、「原因」ではないからだ(Kane 2005;自由な行為とは無制約なものであり無原因なものではない)。同様に、ある心理的要因からの行動の予測可能性や法則性が発見されても、それはその要因が自己形成されていないことや、その要因が確率的な仕方で影響を及ぼさないことを意味するのではない。予測可能性と法則性は自己決定を排除しない。
・筆者らの知見から第一に言えるのは、性格はかなり動的な体系で、そこでは(可変的な)信念が動機と行動のネットワークを作りうるという事である(Cervone 2005; Dweck & Legget 1988)。例えば知能に関する個々人の理論は、様々な目標・努力に関する信念・課題選択・失敗に対する反応を作り出す。こうした信念を我々はそれと気付くことなく持っているが、自分で選択する事も出来る。信念体系は我々の性格の一部であり、そこには自己形成の可能性が大きくある。
・次に言えるのは、(a)自己理論は根深い特性だと思われがちなものを変化させる事が出来る、と言うことである。例えば、レジリエンス(Aronson, Fried & Good 2002, Blackwell et al. 2007; Good, Aronso & Inzlicht 2003)、経験への開放性(Heslin, Vandewalle & Latham 2006; Nussbaum & Dweck in press; Olaks Strossner, Dweck & Serman 2001)、良心(Blackwell et al. 2007)、リスクテイキング(Nussbaum & Dweck in press; Hong et al 1999)、いたわり(Heslin et al. 2006)などである〔いずれの実験でも、被験者に錬成理論を教えると特性がより良い方に変化〕。
・あるいは、(b)それらの特性が人の選択や行為に与える「効果」を変化させる事が出来る。この点は、人の自己理論そのものを変化させた関連研究が無いので予備的段階だが、人が自分の内気さについてどんな理論をもつかが、その内気さが社会的状況への参入やそこでの振る舞いに与える影響を予測する事が知られている(Beer 2002)。つまり、内気さという特性が選択や行動に与える影響は、自己理論に依存するのである。

  • 【まとめ】

・学習可能な信念は性格の一部を形づくる。それは性格の他の部分に影響したり、既存の性格と行為の間の関係を変えたりできる。もし、我々が自由意志を持つかどうかに性格の本性が含意を持つという点が認められるならば、ここで示された性格に関する動的な見解は、自由意志が容易で頻繁に表出されるという可能性を認めるものになるだろう。

結論

・ニーチェ曰く、自由意志への欲望は「半端な教育しか受けていないものどもの心を不幸にも未だ支配している。己の行いに完全で究極的な責任を負おうという欲望、神も、世界も、先祖も、偶然も、社会も責任免除しようとする欲望が」(JGB, 21)。
・一方今日の自由意志擁護者は、「何らかの」選択は自由なのではないか、我々は自分あり方とやり方に「何かしら」言う事ができるのではないかと問う。この望みが通るかどうかは分からないが、心理学は論争のなかで有益な役割を果たすことだろう。