えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

トレンデレンブルク『論理学研究』概要 Rosenstock 1964

https://books.google.co.jp/books/about/F_A_Trendelenburg.html?id=gD41AQAAIAAJ

  • Gershon George Rosenstock. (1964). F. A. Trendelenburg: Forerunner to John Dewey. Carbondale: Southern Illinois University Press.
    • 2. His Principal Work

 F. A. トレンデレンブルクがデューイに与えた影響*1を研究する一冊から、トレンデレンブルクの『論理学研究』(Logische Untersuchungen)の概要を解説した章を翻訳しました。著者は、バラバラな論文の寄せ集めにも見える『論研』を、運動の一義性という基本原理を様々なトピックに応用したものとして解釈する方針を採っています。

   ◇   ◇   ◇

 本書のメインパートでは、『論理学研究』(LU)の内容を細かく検討して行くことになる。だがその前に、トレンデレンブルクの哲学の発展の概要を掴んでおくのが便利だろう。そこでまず、三つの版をもつLU〔初版1840年〕という著作が、一体どのような構造をもち、またどのような主題を扱っているのかを、簡単に見ておこう。これにより、トレンデレンブルクの思想がいったいどのような哲学的環境のなかで開陳されたのかが、より明確になる。

 トレンデレンブルクの敵対者たちは、LUはまとまりのうすい試論の寄せ集めだと評してきた*2。だがLUには、その全体に通底する一つの基本原理がある。各試論はバラバラではなく連続的なもので、そのどれもが、トレンデレンブルクの中心的主題とおおいに関連している。彼の基本的なアイデアがもつ様々な含意を説明したのが、LUの各章なのだ。

 LUは当時の代表的な二つの哲学学派の批判から始まる。すなわち、新ヘーゲル主義と新カント主義の哲学だ。LUの第1章では、A. D. Ch. トヴェステン(Twesten)、M. W. ドロービッシュ、ウィリアム・ハミルトン卿といった、当時の指導的なカント支持者の論理にかんする考え方が攻撃される。同時代の新カント主義的思考に対して打ち込むくさび足がかりとして、トレンデレンブルク自身のアイデアが展開される。カントが解こうとした問題の探究から始めなければドイツ哲学に進歩は無いというこの認識は、トレンデレンブルクが師であるラインホルトから学んだものであった。ここでトレンデレンブルクは、推論に含まれる形式と関係を内容から切り離す「形式的論理」の不適切さを明らかにしようと試みている。

 続いてトレンデンブルクはヘーゲル的弁証法の吟味に向かう。ここでは彼は主に、ヘーゲルの言う「純粋に」内在的な弁証法的過程には、実のところ経験的な要素が含まれていると指摘しようとする。トレンデレンブルクから見れば、ヘーゲル的弁証法は機能不全をおこしており、知識を得るための方法としても不適切である。そして弁証法の代わりに、自然諸科学の発生的方法を用いることが推奨される。この章での主な攻撃対象はヘーゲルだが、同時に、弁証法の使用を存在論に限定しようとしたJ. H. フィヒテ(有名なフィヒテの息子)や、弁証法により厳密な論理的形式を与えようとしたK. ヴェーダーといった、新ヘーゲル主義的な思考についても、同様の難点が指摘される。このように二学派を批判することでトレンデレンブルクは、自身の探究の主要目的とそれを達成するために用いられる手続きを明らかにする準備を整えた。

 ここまでのトレンデレンブルクの研究は、哲学に対して、二つのアプローチに警戒するよう呼びかけるものだった。すなわち、[1] 思考の形式を、経験という文脈からはなれてそれ単独で分析すること、そして[2] アプリオリな根拠にもとづき、経験によって導出も検証もされないような「絶対的知識」を構成すること。これらに反して、あるべき哲学の目的とは、動的な思考の基礎として、感性的直観にまっすぐ通じるような、そういう知識の原理を探すことである。そこで、トレンデレンブルクの基本的な問いはこうなる。「思考と存在が統一的であると知ることは、どのようにして可能か?」。この基本的問題に答えるための基礎作業を行うのがLUの4章にあたり、ここでトレンデレンブルクは自身のアイデアを説明している。それこそ、思考と存在に共通なのは「運動」であり、運動が両者の媒介者としても働く、というアイデアだ。このアイデアは、それがもたらす帰結の実り豊かさによって検証されるべき仮説として提示される。そして実際、LUの残りの部分は、この仮定が様々な哲学的関心にとってどのような含意をもたらすかを吟味するものとなっているのだ。

 上記の仮定を携えたトレンデレンブルクは空間と時間を新しい視点から捉えられるようになった。空間と時間に関する洗練された議論の中では、空間時間連続体というアイデアが先取りされてもいる。このアイデアはすなわち、空間と時間は互いに結びついており、一方に関する見解は他方に関する見解を含意することになるというものだ。こうした洞察は、自然の中で第一義的なものは運動だというテーゼから導きだされる。実際トレンデレンブルクは、空間と時間という概念は運動という概念を論理的に前提することを証明している。空間と時間の観念性を主張したカントに対する有名な批判があらわれるのはこの文脈であり、この批判によってトレンデレンブルクは、クーノ・フィッシャーとの論争に巻き込まれることになっていった。

 さて今度は精神の第一義的な活動を運動だとすると、そこから何がアプリオリに措定されるだろうか。この問題に一章が割かれる。この章は、トレンデレンブルクの数学に関する基本的なアイデアが披露される章になっている。さて、数学は理念的なもの、アプリオリなもの、純粋に論理的な構成物からなるものだと考えられるが、しかし同時に経験的領域に対して適用することができる。このことは、運動こそ思考と存在に共通するという自身の仮説を確証するものだとトレンデレンブルクは考えた。この仮説が正しいからこそ、思考の論理的産物が自然における空間的運動の産物と合致するのだ。純粋数学を構成的、分析的、直観的な分野だと捉える見解が、カントが『純粋理性批判』でとった立場、すなわち数学的命題を分析的ではなく総合的だとする立場に対する批判的応答としてあらわれてくる。数学の論理的性格の分析が、学の形而上学的基礎の探究という枠組の中でおこなわれ、この関連の中で、物質を構成するものは何かという問題が分析される。なるほどトレンデレンブルクは、カントの体系の様々な部分に批判的で、例えば時間空間の観念性や思考の固定性に対する批判がその例にあたる。しかしカントが物質について動的な見解を採った点について、彼は手放しに同意する。カントは物質を引力と斥力の観点から解釈しているが、これはトレンデレンブルクの主張である自然における運動の一義性を具体化したものだというのだ。なぜなら引力と斥力は本質的にある種の運動であり、そしてそうした運動こそ物質を可能にしているとカントは言うのだから。

 続く5つの章では、運動に関する基本的な仮説が、カテゴリーについての新しい理論にどのような含意を持っているかが検討される。ここでトレンデレンブルクは、諸カテゴリーの発生論的な派生関係について論じ、三つの継起的なレベルからなる図式を提出する。すなわち、物理的、有機的、倫理的、の3レベルだ。物理的レベルの基本カテゴリーは、作用因、実体、質、〔実体に対する質の〕内在、運動の相互性、である。これらは発生順に並べられており、前者から後者が論理的に導出されることが、独創的な形で証明されている。有機体レベルでは、人間の目的は生物のそれとは異なって盲目ではなく熟慮的・意志的であるという事実を踏まえ、カテゴリーに新しい意味合いが与えられる。

 さらに続く4つの章はいくつかの論理的問題を扱うものになっている。すなわち、概念の本性と地位、判断の諸形式、証明と検証の種類、アリストテレス的三段論法、帰納、そして演繹である。ここでトレンデレンブルクが主に示そうとしているのは、言語という文脈の中で論理形式の使用を理解することで、論理的関係の性格について新たな洞察が得られる、ということだ。論理は言語から生まれたと彼は指摘する。文法と論理は相互依存的であり、論理はある意味で「より深遠な種の文法」である*3。ここでも力点は発展という点におかれ、そして発展は今度は運動に基づけられる。運動こそ、思考と存在の基礎なのだ*4

 LU最後の2章は、あらゆる経験を総合する体系としての哲学にまつわる問題に取り組んでいる。トレンデレンブルクの考えでは、そのような体系は哲学的企ての最終産物なのであって、経験を無理矢理はめ込むようなあらかじめ把握された構造ではない。それは哲学的理念であり、探究はそれを求めるが、しかし諸学が知識の統一を求めて働いているかぎりは未だ到達されていない、そういうものなのだ。トレンデレンブルクはLUを締めくくるにあたって、「無制約者」(絶対者)の再検討を行なう。絶対者は、伝統的には、宇宙の包括的な解釈の根拠として捉えられてきた。絶対者はあらゆる哲学的探究に通底する隠れた前提であり、宗教においては神という概念に他ならない。ここでトレンデレンブルクはカントの立場に立ち返り、無制約者を知ることは不可能だとする。あらゆるカテゴリーは、有限の経験にしか適用できない。有限性の領域を超え出るならば、カテゴリーの有意味性そのものが失われてしまう。なるほどたしかに宇宙には、「無制約なもの」を差し示すような側面があり、それをわずかにかいま見せてくれるかもしれないが、その本質が明らかになることはない。なるほど人間の理性には、全体としての存在が理性的であることの間接的な証拠だと捉えられる側面があるかもしれない。高位の知性の存在を仮定しなければ、人間理性は世界とあまりに異質なものになってしまう。だがこの仮定をおけば、人間理性は「父の家に生まれた長男」のようなものとなる。有機的生命においては目的性が、そして人間においては目的の意識が、現れている。こうしたことがらはすべて、神の精神のうちには至高の目的があり、神はその愛においてあらゆる可能世界の中から最善を意志されたということの、間接的な証拠だと捉えられるかもしれない。〔しかし〕「もちろん、そのような高みに登る必要は無い[……]人はパンがどこから来たのかを知らずにそれを食べているときでさえ、世界のなかで自らの所を得ているだろう[……]詠み手を知ることなく詩を理解することもできる。それで十分だとは思わないだろうか?[……]詩はあなたに、詩人の魂の像を与えてくれる。そして世界は神の像を。」*5

 このように、トレンデレンブルクの有機的な世界観はひとつのヴィジョンといった性格をもっていて、様々な哲学的なアイデアが体系的統一性を形成している。彼はこの統一性を擬人化して表現してもいる。「目的という観点から見ると、世界は神の身体だと言えるかもしれない。とはいえ、像は像である。」*6

 1862年にLUの第二版を出版するにあたってトレンデレンブルクは、軽微な訂正は行なったが基本構造はそのままであると述べている。実際見てみても、アイデアを変えたり、何か本質的に新しいものを付け加えようとした形跡は見受けられない。二版での主要な変更点は、自身の立場をさらに支持するような新たな科学的証拠が論述に組み込まれている点と、初版から20年のあいだに生じたいくつかの重要な哲学的見解への批判がみられる点だ。前者については、フェヒナーの原子論や〔H.〕ゲオルゲ*7による物質のガス説もまた、トレンデレンブルクの結論を導くとされる。また、ヴィルヘルム・ヴントやフリードリヒ・カール・フレゼニウス(Friedlich Carl Fresenius*8)の心理学における経験的研究も、運動が空間と時間に先立つという基本教義を確証しているとされる。

 LU初版に対しては、新ヘーゲル主義者であるローゼンクランツとエルトマンから批判があった。これに対する簡単な応答も第二版には含まれている。新ヘーゲル主義者たちの批判は、トレンデレンブルクがヘーゲル的弁証法に提起した反論を退けるものには全くなっていない、とトレンデレンブルクは言う。また、新ヘーゲル主義者は弁証法的方法を形而上学と神学だけに適用するようになってきているが、これこそ自分が第一版で指摘しておいた弁証法の限界を証明するものだとも彼は述べる。1862年の現在、弁証法は哲学的に不要になったばかりか、自然科学の目的のためにも全く役に立たないことが広く認められるようになってきた。そして、弁証法の不毛さをさらに示すことに、今や弁証法が用いられる主張な領域である神学においてでさえ、何か単一の包括的見解を生み出すにはいたっておらず、かえって各人がバラバラな見解を導きだすに至っているのだ。

 LUの初版がでた後、カントとヘーゲルの哲学に反論するもののあいだでは、ショーペンハウアーの哲学が熱心に学ばれるようになってきた。これを受けてLU第二版には、ショーペンハウアーに対する批判が加えられた。カントは、意志の知性的自由を経験世界における決定論から切り離そうとしていたが、こうした自由をショーペンハウアーの意志概念は無きものにする。ショーペンハウアーの手にかかると、知性は生へ向かう盲目の意志の奴隷なのだ。だがこのように考えると、基本的な倫理のまさに根拠が失われてしまうとトレンデレンブルクは論じる。意志は知性を含意し、倫理的良心は意図および究極目的の知識によって導かれる。こう考えるトレンデレンブルクは、ショーペンハウアーのペシミズムに抗して、人間知性の構成的な自己決定力に対する楽観的な信仰を表明している。 

 1862年のLUで最も重要な追加個所は、心理学にかんする節だ。ここでトレンデレンブルクは、実在論的な知覚理論を提出し、アリストテレス的な霊魂論を進化論を踏まえて磨き直している。知覚とは、〔有機体が自身を環境に〕調節〔する〕過程という観点から解釈されなおされる。そして精神とその成長、発展は、目的としての生存と関連づけられる。ここでのトレンデレンブルクの議論もまた、運動という中心的アイデアを具体化したものになっている。

 1870年にはLUの第三版が出版されるが、ここでは新たな節が付け加わっており、ドイツにおけるダーウィニズムの分析と批判にあてられた補遺になっている。ヘッケルが進化論から引き出してきた哲学的結論が批判的に検討され、彼が言うような目的の消去なるものには根拠が無いことが示される。トレンデレンブルクによれば、ダーウィンの理論が目的を排除したり唯物論を帰結することはない。逆に目的は、進化という教義全体の基礎に暗黙裏におかれていると見ることができるだろう。

*1:トレンデレンブルクは、ミシガンで観念論を展開したジョージ・ジルベスター・モリスの師で、さらにモリスはデューイの師にあたります

*2:E. Bratuscheck, Adolf Trendelenburg (Berlin, 1873), pp. 106 ff.

*3:ウィトゲンシュタインが『哲学探究』のなかで自身の探究のことを「深層文法」と呼んだことを思いだされる向きもあるだろう(特に111と664を見よ)

*4:トレンデレンブルクの運動概念とヘーゲルの運動概念の比較は、本書第5章の中核となる節である「知識の形而上学的基礎」を見よ

*5:LU, II, 509

*6:LU, II 473

*7:訳注:不詳。トレンデレンブルクが引用している文献はここに収録 https://books.google.co.jp/books/about/Zeitschrift_f%C3%BCr_philosophie_und_philoso.html?id=OhcNAQAAIAAJ

*8:訳注:化学者のフレゼニウスのいとこ