えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

感情労働の何が悪いのか? 信原 (2017)

情動の哲学入門: 価値・道徳・生きる意味

情動の哲学入門: 価値・道徳・生きる意味

  • 信原幸弘 (2017). 『情動の哲学入門』. 春秋社
    • 第7章 感情労働

 感情労働とは、情動やその表出の制御が強く求められる労働のことだ。感情労働の問題点は、一定の情動を強いられるという点にあるように見える。しかしそれは問題の本質ではない。

 というのもまず、各種のサービスには情動の制御が本来的に必要な部分がある。その限りで、情動の強制それ自体が問題な訳ではない。本当の問題は、本来そのサービスには必要がない程度まで、過剰に情動の制御を強いられる場合にある。情動の制御が過剰なものになるのは、本来のサービスにとっては不要であるが、顧客の優越性への欲求を満たすために、情動の制御が必要となる場合だ(Brewer 2011)。顧客の承認欲求を満たすために労働者が情動を制御するとき、労働者は自己自身を不当に卑下していることになる。これは労働者の尊厳を汚すものであるために問題がある。ところで、顧客の承認欲求を満たすことが、本来のサービスの提供に加えて必要となるのは何故か。それは、現代においては企業間の顧客争奪戦が激しいため、顧客を獲得するには本来のサービス以上のものを提供しなくてはならないからだ。

 感情労働の問題点は情動の強制それ自体ではないということは、次の点を考えても分かる。はじめは強制的だった情動が慣れによってどんどん自然なものとなっても、問題が消えるわけではない。なるほどたしかに、その情動が自然なものとなれば、強制に伴うストレスや不快感は消える。また、その情動が本来のサービスに必要なものであれば、それはその業務に従事する者として一人前になったということでもある。しかしその情動が、自己を不当に卑下するようなものであるときには事情が違う。そのような情動が自然なものになるということは、労働者は自らを自然と不当に卑下する存在になってしまったということだ。これはつまり、自らの尊厳を自ら半永久的に傷つける存在になってしまうということであり、不当な情動の制御を強制されて一時的に尊厳が傷つけられることよりも、さらに悪い。このように、感情労働の真の問題点は、情動が強制されることそれ自体ではない。強制的なものであれ自然なものであれ、自らの尊厳を傷つけるような情動の制御を求められる点に問題があるのだ。

 さらに、感情労働にはまた別の問題点がある。そもそも情動は私たちに、自分が今置かれている状況の価値を告げてくれるものだ。そこで、自分が置かれている状況をより詳細に検討し、曖昧だった情動を明確化させていくことで、私たちは自分にとって本当に重要なものが何なのかに気づき、それを成就すべく生きることが可能になる。こうした自己洗練が、しかし感情労働によって妨げられてしまう。まず、感情労働のために一定の情動(たとえば、主人や客への忠誠心)を深く身につけることは、その労働を妨げるような別の情動(同僚への愛)の明確化を拒むことにつながってしまう(Brewer 2011)。さらには、感情労働において要求される情動それ自体も、明確化されないままになってしまう。というのも感情労働に従事する労働者は、ある情動がどのような価値を反映するもの、すべきものなのかを明確に理解することなく、ただ単に業務に必要だからという理由でその情動を身につけるからだ。労働者ははじめは、強制される情動に違和感を感じるだろう。それは本来ならば、その情動を明確化するキッカケとなり、その情動は現在の状況の価値にそぐわない不適切なものだと自覚するに至るだろう。しかし労働の中でその情動を自然なものとして身につければ身につけるほど、そうした明確化と自己洗練の機会が失われてしまう。

【メモ】
そうだとすると、店員の笑顔は自発的よりは、むしろ無理やりのほうがよい。自発的に笑顔を見せるのであれば、それはたんに客の来店そのものを店員が喜んでいることを示すだけで、店員が客の優越性を認めていることを示さないかもしれない。笑顔など見せたくないのに、それでも客から生きる糧を得るために、仕方なく客に笑顔を見せるのでなければならない。そのような笑顔こそが客の優越性の承認を明瞭に示すのであり、それゆえ感情労働として有効なのである。(p. 176)

Morality and the Emotions

Morality and the Emotions

  • Brewer, Talbot. (2011). On alienated emotions. In Carla Bagnoli (ed.), Morality and the Emotions. Oxford: Oxford University Press.