http://www.tobikan.jp/exhibition/2017_bruegel.html
- 高城靖之「ブリューゲル一族と16、17世紀フランドルの絵画制作」
先日(18年3月17日)、東京都美術館で開催されていたブリューゲル展にいってきたのですが、たまたま学芸員の方が講演をしており、大変勉強になりました。以下はそのさいの(あまり信頼できない)メモです
◇ ◇ ◇
ブリューゲル一族
- ピーテル・ブリューゲル1世
- ピーテル・ブリューゲル2世
- ヤン・ブリューゲル一世
- ヤン・ブリューゲル2世
- ヤン・ピーテル・ブリューゲル
- アブラハム・ブリューゲル
- アンブロシウス・ブリューゲル
- ヤン・ブリューゲル2世
ピーテル・ブリューゲル(「バベルの塔」「農民の婚宴会」)
- 15-20人の画家を輩出する画家一族
- 16世紀のネーデルラントで活動。経済・文化の中心地としてフランドル(オランダに対して南側の地域)がある
- 当時の画家は、イタリアに留学し、イタリア風の宗教画を描くのが主流(クレーフェ「サクランボの聖母」:ピーテル・クック・アールスト)
- ピーテルはアールストに師事。しかし影響を受けず。むしろボスの影響が強い(「快楽の園」)
- ボス……地獄の場面、人と動物が混ざった化物が人々を苦しめる
- ボスのような地獄の描写の伝統は北方に根付いていた。
- イタリアの画家であるジョットやミケランジェロの「最後の審判」では、地獄の扱いが小さく、化物は存在していない。人の姿をした悪魔。
- ファン・エイク(1440-41)やボス(1504-1508)の「最後の審判」では、地獄の扱いが大きく、化物が多数存在。ブリューゲルの「最後の審判」もこの伝統を受け継ぐ。
- ボスのような地獄の描写の伝統は北方に根付いていた。
- 宗教画が中心だが、風俗画や風景画を描く革新性も
- 農民への関心→ピーテル・ブリューゲル2世が継承
- 自然への関心→ヤン・ブリューゲル一世が継承
ピーテル・ブリューゲル2世……農民への関心
- 「鳥罠」(1601)
- 農民たちの命も鳥の命と同じように危険と紙一重であるという寓意(スケートをする氷に穴)
- ※一世の作品と全く同じ構図。彼は、父の作品のコピーを生涯作り続けた
- 作品のコピーは当時珍しいことではなかった
- 「7つの慈悲の行ない」「野外での婚礼の踊り」
- 父の版画を油彩に
- おそらく下絵が手元にあり、それを紙に写す。写した線にそって穴をあけ、炭の粉などをもちいて複製する(「パウジング」)
- 当時のネーデルラントは、貿易で豊かになっていた。
- それに伴い、貴族や教会しか持てなかった絵画の購買層が一般市民にもひろがる。たとえばアントウェルペンの住民の9割以上が1枚以上の絵を持っている。貸家でなければ平均して25。
- 絵の種類としては、貴族たちがコレクションしていたような絵の需要がやはり大きかった。ピーテル一世の絵がハウスブルク家に集められることでブリューゲル風の絵の需要が高まり、それにこたえるために機械的な方法で量産がおこなわれた。
- ただしピーテル2世はあまり裕福ではなく家賃も払えなかった
ヤン・ブリューゲル一世
- 「田舎道を行く馬車と旅人」
- 12*20の小さなカンバスに雄大で緻密な風景
- 「水浴をする人たちのいる川の風景」
- 「鳥罠」と同じ構図。同じ場所を描いたというよりは、「鳥罠」を見て季節を変更して描いたもの。兄と比較するとより想像的
- 「机上の花瓶に入ったチューリップと薔薇」
- 花の絵はヤンが開拓していったジャンル。
- チューリップは16世紀にトルコからもたらされた貴重品だった。とくにここで描かれている筋が入ったチューリップは珍しく栽培も難しかった(今日の視点から見ると、筋が入っているのは病気で、花がつかないのも当然だった)
- 花の絵は貴族や聖職者にも受け、兄とは違い上流階級を相手に商売。アントウェルペンに家を6つ持つほど裕福になり、ブリューゲル一族繁栄のいしずえになった。
ヤン・ブリューゲル2世
- 「嗅覚の寓意」(犬、ジャコウネコ(独特の匂いを発する)、香水)
- ルーベンス&ヤン一世の「嗅覚の寓意」からの影響
- 「聴覚の寓意」(シカ(耳がいい動物として知られる)、鳥)
- ルーベンス&ヤン一世の「聴覚の寓意」からの影響
- 「聖ウベルトゥスの幻視」
- ルーベンス&ヤン一世の「聖ウベルトゥスの幻視」
- 彼もまた父の絵をコピーして、ブリューゲル風の絵画の流行を作っていった
- 18世紀になってもヤン一世の絵を全然関係ない画家がコピーするほど、人気があった(ブレダール「史上からの帰路につく農民たち」(1700-1710))
- 共作……17世紀のフランドルで一般的に
- 人物と風景を分担(風景→人物)
- ブリューゲル一族は風景や花を担当することが多い
- 花輪のついた枠だけの作品も残存
- ブリューゲル一族は風景や花を担当することが多い
- 共作は、フランドルでの絵の需要の高まりに応えた、効率的に需要に応えるためのシステムのひとつ。フランスやイタリアでは一般的ではなかった。
- 人物と風景を分担(風景→人物)
- ヤンが開拓した花の絵は、ブリューゲル一族の代名詞的存在になった。一族は花の画家として画家組合に登録
アブラハム・ブリューゲル
- 一族の多くがイタリアに留学する中、アブラハムはイタリアからもどらずイタリアで活躍
- 「果物と東洋風の鳥」
- 花瓶などを用意せず地面に直接モノを置く大胆な構図
- イタリアの静物画のスタイル:その他、屋外にものを配置するなどイタリアのスタイルを吸収
- 花瓶などを用意せず地面に直接モノを置く大胆な構図
- 細部まで描き込む事物の描写という伝統を受け継ぎつつ、イタリアの流行を取り入れて、成功をおさめた
ヤン・ファン・ケッセル一世(ヤン一世の孫)
- 「蝶・カブトムシ・コウモリの習作」
- 大理石に描く油絵
- 16世紀まで油絵は木の板に描かれることが多かった
- イタリア:ポプラ(生育が早いが気候や虫の影響を受けやすい)/ネーデルラント:オーク(楢?)(生育が遅いが気候や虫の影響を受けにくい)
- イタリアの画家は15項半世紀からカンバスに移行し16Cヨーロッパ各地で主流になるが、ネーデルラントでは16世紀末までずっと板
- 16末〜17Cには銅板もフランドルで普及
- 圧延技術の向上(ローラー)、銅版画の普及(裏返すと版画の原板だったものも)、携帯性耐久力、下地処理の簡略化(褐色の色を下塗りする必要性が無い)
- 共作が普及しているフランドルでは、作品の工房から工房への移動が頻繁。また、国際的画商が存在し絵画の輸出が盛んだった。こうした点から、軽量で耐久性にすぐれた銅板が普及した。
- 石は絵を永遠にする
- ローマは戦争被害によって美術品が損傷し、永遠の絵画を求める動きが。そのなかでデル・ピオンボが石に描くことを始める。ただし作品数は少なく、大理石はさらに少ない
- ヤン・ファン・ケッセル一世はなぜ大理石に?
- よくわからないが、かなり考えての使用だった。大理石の目の模様が虫たちの羽の下に来るように配置し、羽の透明感を表現
- 素材の特徴を捉えた上で描くのも一族の特徴のひとつ