えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「発生論的誤謬」 の起源? Cohen and Nagel (1934)

https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.499820

  • Cohen, M. R and Nagel, E. (1934). An Introduction To Logic And Scientific Method. London: Routledge & Kegan Paul.
    • pp. 388−390

以下は、モーリス・コーエンとエルンスト・ネーゲルによる共著『論理学と科学的方法への入門』(1934)から、「発生論的誤謬」が現在の意味で初めて使われたとされることの多い個所の翻訳です。興味深いのが、この個所は「誤謬」という章の「科学的方法の濫用」という節に入っているところで、ここで主たる仮想的となっているのは進化主義的な人類学であるようです。

発生論的誤謬

1. その一つの形は、時間順序を論理的順序で代替してしまうというものだ。これまでの議論ではっきりしたと思うが、歴史の事実は論理のみからは演繹できない。過去に関するいかなる思弁であれ、それを検証ないし確証するには事実のデータが必要なのである。この真理に照らせば、信頼できる記録以前の人間の歴史を再構成するのに「何が生じていなくてはならないか」に関する思弁だけで済ませようとする試みはすべて有罪である。こうした試みは18世紀に広く流通し始め、今日でもまだかなり人気がある。言語や宗教の起源、政府を生じさせた原初的な社会契約などに関する理論のなかでも、「「最初の」ないし「原始的な」人がしていなくていけないこと」について経験的に支持されていない仮定を用いている者は総じて、歴史としては弁護できない。かくかくの形で現実の歴史が構成ないし発見されなければならないなどと仮定することは、明らかに論理的な誤り、誤謬である。ここで注意すべきだが、「社会進化」なる名で呼ばれている思弁的でアプリオリな歴史、すなわち人類のあらゆる制度について、それが登って行くべきでありまた実際登ってきた段階なるものを演繹しようという試みも、今のべた思弁的試みと同じようなものだ。このようなかたちで家族や産業や国家などの歴史を跡づけようという試みの中では、初期の段階ほど単純で後の段階ほど複雑だという仮定がおかれているのである。

 こうした試みはたしかに魅力的に映る。というのも、現在の複雑な制度を、より単純な要素から組み立てられたものとしてみることができれば、現在の制度をより優れたものだと考えることができるからだ。しかしながら、出来事が実際に起きた順番と、既存の制度を構成する要素を組み合わせる論理的な順番を同一視してしまうのは、まったく許容できない誤りである。記録に基づいた現実の歴史によれば、諸制度は単純性が増すと共に複雑性も増すというかたちで進展している。たとえば、現代英語は屈折の点では古英語より単純になっているし、また法律手続きについても、問題となる行為が廃れた場合は単純になっていく。アプリオリな進化主義者たちは、母系家族が父系家族よりも先行していなくてはならないとか、遊牧社会が農耕社会よりも先行していなくてはならないと主張するが、それでもある実在のインドの部族は父系家族から母系家族に変化したし、ペルー人は遊牧段階をスキップしていった。というのは、アンデス山脈西側の傾斜地帯では、社会組織の基盤となるのに十分な数の家畜を育てることができなかったからだ。実のところ、単純から複雑へ発展する法則なるものは、あまりに曖昧すぎるために、やろうと思えばどんな歴史的出来事だってその法則から演繹できてしまう。ある時点での知識からすると単純に見えるものも、知識が増大したりより詳細な検討を経ればより複雑にみえるようになるものだ。そして、どうしようもなく複雑だと始めは思われていたものも、体系的研究の後では単純に見えるものだ。発生論的な説明ないし理論は、なるほどはじめはそのアプリオリなもっともらしさで私たちを魅了するが、しかし思考の順序と時間の順序を区別し、検証可能性というテストにかけてやれば、その魅力も失われていくのである。

2. 逆の誤りとして、学問、技術、社会制度などの実際の歴史が、その構造の論理的分析の代わりになるという想定をあげることができる。なるほどたしかに、付け加えや堆積によって成長するものの場合には、そうした継続的な付加に注目することで、最終産物の構成を明らかにすることができるだろう。しかし、全ての成長がそのようなかたちをとるわけではない。例えば学問や技術、そして一定の社会組織は、それまでのものとはまったく関係ない何らかのアイデアやパターンに従って計画的に変化する場合がある。

 学問の実際の歴史が論理的分析の代わりになるという考えにはまた別の混乱もふくまれている。すなわち、知識と知られる対象の本性のあいだの混同である。物理学、生物学、天文学、ないし地学などの歴史は、それがどんなものであれ、人間の知識の成長に関する歴史である。ところが、こうした学問の主題となっているものは、人間の知識以前、というよりも地球に人間が現れる前から、ずっと存在したと想定されている。そうした物理的な意味での宇宙をいったん脇においておき、人間による達成物に話を限ったとしても事情は同じである。学問が歴史的に成長してきた順番と、その学問に含まれる命題がどこかの段階で連結される際の論理的順番を同一視するのは、あいかわらず誤りなのだ。既に見たように、幾何学の多くの定理は、定理間の体系的な連結が予見されるはるか以前に発見されていた。従って、定理に対する公理の論理的先行性は、人類の理解や知識における時間的先行性と同じではないのである。またこれも既に見たが、いわゆる帰納的帰結を妥当なものとするために必要な前提は、論理的には帰結よりも先行するものであるが、そのことは、私たちが時間的に先に帰結を見つけ後から前提のほうを見つけたとしても、変わらない。一般に、私たちが知識を学び身につける際の時間順序は、その知識を構成する命題の論理的順序と同一ではないのだ。