えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ペシミズムと生理学 Sully (1877)

https://archive.org/details/pessimismhistory00sull

  • Sully, James (1877). Pessimism: A History and A Criticism. London: Henry S. King.

 人生においては快より苦痛のほうが支配的だという非対称性の指摘は、ペシミストたちの基本的主張の一つです。この主張と生理学の関係についてコメントしたのが、ジェームズ・サリーの『ペシミズム:歴史と批判』の補遺Bです。サリーの基本的なスタンスは、痛みと快のあいだに生理学的差異を見いだそうとする試みを批判することです。

 まず取り上げられるのは次のような議論です。苦痛は神経の乱れや破壊に、快は神経の効果的な(effective)作動に結びついている。そして、神経の乱れ・破壊は際限なく起こりうるが、効果的作動には限度がある(神経が使用できるエネルギーには限りがあるので)。これらから、快よりも痛みの量の方が多いというペシミスティックな結論を導きだされる。この議論の提唱者の例として『生理学的美学』のグラント・アレン(Grant Allen)が挙げられます。これに対しサリーは、神経も完全に破壊されればその後は反応しなくなるので、痛みの量にもやはり限界があると指摘し、快と苦痛のあいだの非対称性を取り除こうとしています。

 次に取り上げられるのが、ヘンリー・モーズレー(Henry Maudley)に帰される「痛みは、神経の乱れに結びついているがゆえに、快に比べ想起しにくい」という指摘です。これは少しわかりにくい指摘ですが、おそらく、過去の痛み経験の想起はそれ自体として痛い経験ではないが、過去の快経験の想起はそれ自体としても快い経験だと言っているのだと思われます。そして、なぜ痛みの想起は痛くないかと言えば、痛みは身体の損傷と直接結びついているものなので、損傷から回復した後にかつての痛みを想起しても、その想起経験自体は別に痛くない、ということなのでしょう。さて、この指摘は先ほどの論点とは逆に、痛みの方が人生において支配的だという見解に対する反論に使えそうです。しかしサリーはこの非対称性にも批判的です。サリーによると、痛みと快にはどちらにも、身体とより結びついた低次なものと高次の精神的なものがあり、上記の非対称性があるように見えるのは低次の痛みと高次の快を比較しているからにすぎません。高次の痛み(心の痛み)の想起はそれ自体痛ましい経験であるし、逆に低次の快、たとえば美味しいものを食べたことの想起は別に美味しくないでしょう。想起しにくいかどうかというのは痛みなのか快なのかで決まるものではなく、それらに関連する知的な側面や状況によって決まるとサリーは結論しています。