えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

デュ・ボア=レイモンと電気魚 Dierig (2000)

http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1076/0964-704X%28200004%299%3A1%3B1-2%3BFT005#.Vug9EYyLRNQ

  • Dierig, S. (2000). Urbanization, place of experiment and how the electric fish was caught by Emil Du Bois-Reymond. Journal of the history of the neurosciences: Basic and clinical perspectives, (9)1: 5−13.

 ガルバーニ以来、生理学の研究はあまたのカエルの殉教のうえに成り立っている。温血動物と比較して、カエルは体の構造が単純で、また器官を単体で取り出しても長いあいだ機能しつづけるため、生理学的実験に適しているといえる。とはいえ、ある動物がどれだけ実験に適していても、それが科学者の身近にいなくてはお話にならない。この点、デュ・ボア=レーモンのいたベルリンは、少し歩けば田園といううってつけの場所だった。クロード・ベルナールも「生理学者によってもっとも使われた動物は、もっとも捕まえやすかった動物だ」と述べている。

 だが話はここからだ。神経内の動物電気は、カエルの筋肉の場合には収縮をもたらすが、しかし電気魚の発電器官の場合には放電をもたらす。そこで、動物電気の根本原理を明らかにするには、カエルと電気魚の比較研究が必要不可欠だとデュ・ボア=レーモンは考えた。「神経、筋肉、そして発電器官は、分けて考えられない。ひとつの全体としてみるべきだ」。だが、電気魚はアフリカや南アメリカの川、もしくは地中海でしか見つかっていない。50年代末には旅行者から電気ナマズを分けてもらうこともあったが、数も少ないすぐ死ぬで十分な研究は出来なかった。それでは”実験室が来い”ということで、彼はカール・ザックス Carl Sachs の協力を得て探検を計画する。77年、ザックスは数多くの実験道具を携え電気ウナギの生息するベネズエラへ赴いた。だが、雨期に悩まされたりウナギ釣りに苦心したり、ベルリンのカエルと当地のカエルでは神経の様子が違ったり、電気ウナギの発電器官はナマズのものより相当複雑だったりで、はかばかしい成果を上げることは出来なかった。また探検以外の方策として、デュ・ボア=レーモンは72年に設立されたナポリ臨海実験所に大いに期待していたのだが、創設者アントン・ドールン Anton Dohrn の努力も虚しく、生理学の実験室が併設されることはなかった。かくして、電気魚と実験室の距離はいっこうに縮まらなかった。

 では何がこの問題を解決したのか。産業革命である。1877年、デュ・ボア=レーモンはベルリン大生理学研究所を設立する。この研究所には(69年にルートヴィッヒがライプツィヒに設立した研究所に倣い)水道とガスが引き入れてあった。19世紀後半、ベルリンはますます都市化・工業化し、水道やガスが走り出していたのだ。水道については50年代末のデュ・ボア=レーモンにも利用可能だったが、魚を長生きさせるのには限界があった。しかし1869年にベルリンに私設の水族館を設立したアルフレート・ブレームは、ガスエンジン(オットーエンジン)で水を循環させることで魚を長生きさせるという方法を確立していた。これに学んだデュ・ボア=レーモンは、地中海から電車で送られてきた電気魚を研究所の水槽の中で長生きさせることが可能となり、電気魚の供給に悩まなくても良くなったのだった。


 このように、デュ・ボア=レーモンの研究はベルリンの都市化・工業化と密接に結びついていた。実験室とそれが位置する都市はそれ自身歴史的変化を被るものであり、そのことによって科学者・機具・生物の出会いかたもまた変化するのだ。