えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ジェームズ・サリーと心理学の二つの方法 Sully (1884)

https://archive.org/details/outlinespsychol02sullgoog

  • Sully, J. (1884). Outlines of Psychology: With Special Reference to the Theory of Education. A Text-Book for Colleges. New York, NY: Appleton.

 サリーは、科学的知識に3種類の特徴を認める。すなわち(1)確実性、(2)精確性、(3)一般性である。また彼は、心について研究する方法として、主観的方法(内観)と客観的方法(生理学を含む観察)を認める。それぞれの方法にはそれぞれのメリットがある。まず主観的方法は、その人個人の心について(1)確実な知識をもたらす。他方で、生理学を含む客観的方法は、(2)精確性と(3)一般性をもたらす。従って、「両方法は組み合わされなければならない」。

 私たちは自分自身の個人的な心のなかで生じていることについては直接的にしか観察できない。このため、心的状態にかんする何らかの確実で正確な知識を得ようとすれば、いくらかの内観が第一条件となる。他人の思考や感情、意志の外的な記号や結果を見るだけで、心的現象やその法則を発見しようとするのは、まったく馬鹿げていよう。というのも、そうした外的なあらわれは、それ自体としては意味空虚であり、知らない言語における語のようなものだからだ。そして、こうした外的あらわれが意味を受け取るためには、私たちが自分自身で考え感じてきたことを参照するしかないのだから。しかし他方で、自分自身の心の内容にのみ注意を払っていては、心にかんする一般的な知識は得られない。個性の影響を低減するためには、私たち自身の考え方・感じ方を、他の心のそれとあらゆる点で比較してみなければならない。こうした比較が広範に行われるほど、私たちの行う一般化は健全なものとなるだろう。 (pp. 6−7)

心的現象を神経過程と密接に結びつけながら研究することの一つの利点は、それが一般的であるとともに精確な知識をもたらしてくれるところにある。(p. 8, note 1)

 主観的方法に客観的方法を組み合わせることではじめて、心にかんする知識は一般化され、法則がもたらされる。心にかんする法則の中でも、とくに心と脳・神経の関係に関する法則を探究するのが、生理学的心理学である。生理学的心理学が取り扱う問題には、心的現象の脳や神経における座の検討、脳機能の局在の検討、物理的現象と心的現象の量的関係の検討(精神物理学)、神経の状態変化にともなう心的変化の検討、等がある。
 だが生理学的心理学はあくまで、心と身体の「関係」にかんする研究であり、心そのものにかんする研究ではない。心的現象の神経的随伴物を指摘しただけで、その心的現象そのものを説明した気になっている同時代の唯物論的傾向をサリーは批判する。

 心理学は一つの科学として、心的なものと物理的なものは共在し共変するという事実を認めなくてはならない。従って、心はその活動をあらゆる神経過程との関係から得ているなど主張すべきではないし、逆に、心と神経過程を唯物論的な仕方で同一視し、精神的過程を物理的なものによって説明するなどという無駄な試みをすべきでもない。今日、「生理学的」心理学の名のもとに、ルーズな心理学的思考が大量に出回っている。ある心的現象の神経的随伴物ないし条件を名指すことが、その心的現象を説明することだとされているのだ。だがこれは誤りである。光や音の感覚が特定の神経活動に後続すると述べても、そうした感覚を完全な意味で説明することにはならない。この種の神経刺激が与えられると心はこのような仕方で反応するだろう〔などという言い方は〕、さらなる説明を拒むまさしく心的な特徴〔の存在を〕証立てているのである。同様に、二つの印象(たとえば、色の印象が二つ)の差異の知覚は、そこに異なる神経的要素や過程がかかわっていると言っただけでは説明されない。差異の知覚は、まさに知覚なのだから、まさしく心的なものであって、それはいかなる神経の変化によっても説明できない。このような、物理的なものと精神的なもののあいだの根本的な相違と、そこに由来する心的事実の生理学的説明の限界を心にとどめておかなければ、健全な心理学は不可能である。(p. 4)