The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880
- 作者: Frederick C. Beiser
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr
- 発売日: 2015/01/27
- メディア: ハードカバー
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- Beiser, F. (2014). The Genesis of Neo-Kantianism, 1796−1880. Oxford: Oxford University Press.
General Introduction[Mikro und Makro]
PART I. The Lost Tradition[Mikro und Makro]
- 1. Jakob Friedrich Fries and the Birth of Psychologism
- 2. Johann Friedrich Herbart, Neo-Kantian Metaphysician
- 3. Friedrich Eduard Beneke, Neo-Kantian Martyr
- 4. The Interium Years, 1849−1860
PART II. The Coming Age[Mikro und Makro]
- 5. Kuno Fischer, Hegelian Neo-Kantian
- 6 Eduard Zeller, Neo-Kantian Classicist
- 7 Rehabilitating Otto Liebman
- 8 Jürgen Bona Meyer, Neo-Kantian Sceptic
- 9. Friedrich Albert Lange, Poetand Materialist Manqué[Mikro und Makro]
- 10 The Battle against Pessimism
- 11 Encounter with Darwinism
1.カント主義者としてのヘルバルト
ヘルバルトはふつう新カント主義者だとは見なされていない。たしかに、彼のカントへの態度は全体的に批判的だった。しかし『一般形而上学』(1828) でヘルバルトは「1828年のカント主義者」をもって任じ、カントの学説を、最近の諸科学の発展と一致するかぎりで、そして、同時代の理性主義的傾向に抵抗する形で、維持したいと表明している。
『一般形而上学』でヘルバルトがとくに支持するカントの学説が二つある。まずカントは、「本質と存在の区別」によって、理性のみから存在を導出しようとする理性主義的な形而上学の伝統を批判した。さらにカントは「規範的なものと自然的なものの区別」によって、倫理学を形而上学から分離した。この二つの区別は思弁陣営によって再び曖昧にされており、とくに規範的/自然的の区別についてはその責任の一端は『判断力批判』にある。「有機体」という概念が規範的/自然的の区別を橋渡しするもののように見えるからだ。しかしヘルバルトは『純粋理性批判』の方に忠実に、二つの区別を堅持する。
さらにヘルバルトがカント主義者である点として、形而上学を超越論的な企てだと理解する点や、超越論的観念論の採用が挙げられる。既存の解釈では、ヘルバルトはあらゆる観念論を拒否するとされてきたが、彼が拒否する「観念論」とは外界の実在を否定・疑問視する立場にすぎない(このような立場の拒否ならカントですら行っている)。ヘルバルトはカント同様物自体と現象の区別を認め、私たちが意識できるものは現象に限られるとしており、超越論的観念論者なのである。ただし、何が現象にあたるのかについてはカントよりも実在論的で、例えば空間と時間をアプリオリな直観と見なすことには反対している。
ヘルバルトがカント主義に肯定的なのは、彼が1809年から1833年の間ケーニヒスベルク大の哲学教授であったことと無関係ではない。プロイセンの片田舎にあって、シェリングやヘーゲルやロマン主義の流行から疎外され、ヘルバルトは自分自身を歴史の中に位置付ける必要を感じた。このとき、自分を同一化する相手としてカント以上に適当な人物はいなかったのである。
だが、ヘルバルトははじめフィヒテ主義者として出発したのだった。それがいかにしてカント主義者になったのか、これを検討するのが本章の課題である。
2.悩めるフィヒテ主義者
ヘルバルトは1776年にオルデンブルクで生まれた。ギムナジウム時代にカントを読み、とくに『人倫の形而上学の基礎づけ』から、道徳が目的それ自体であることと自律の価値とを教えられたという。1793年にイェーナ大学に入学すると、フィヒテのサークル「自由人協会」に出入りするようになり、熱心なフィヒテ主義者となる。だがヘルバルトはフィヒテに異論なしというわけではなく、『全知識学の基礎』に疑問を呈する草稿が残っている。フィヒテは超越論的哲学全体を、「自己は自己の存在を絶対的に定立する」という原理に基づけようとする。だが、自己を定立することを本性とするこうした自己が、どうすれば非自己を定立できるのだろうか。この原理からは、主体と客体の対立は説明できないように思われるのだ。
またヘルバルトはシェリングについても三つの未公刊のエッセイを残している。第一のエッセイでは、上記のフィヒテに対するのと同じ疑問とともに、絶対的自己にかんする知的直観をシェリングという個人が持てるのはどうしてなのかという認識論的疑問を呈している。第二のエッセイでは、全く異質な内実を持つ複数の原理があるときに、それより高次の一つの原理を想定するアプリオリな理由はないのではないかと指摘する。第三のエッセイでは、「知識の根拠は「我あり」という無条件(自明)な原理である」という認識の話から、「自己とは無条件な存在である」という存在にかんする結論を引き出してくるシェリングの推論を批判する。またシェリングは、伝統的形而上学は可能な経験を超えており独断的だと批判しておきながら、彼の絶対的自己は明らかに可能な経験を超えている。
ヘルバルトはこうした初期の草稿でカントに言及はしていないが、以上の批判点はカントがライプニッツやヴォルフに投げかけたものと同じである。だがこのような批判を投げかけつつも、ヘルバルトは思弁哲学とその基礎付け計画を放棄はせず、改善できるものと信じた。ヘルバルトが最終的にフィヒテから自由になるまでには、長い葛藤が必要だった。
3.スイス時代
「自由人協会」の若者たちは自らを新しい社会・政治秩序の指導者とみなしており、教育をつうじた漸次的改造を志向した。そこでメンバーの多くが家庭教師となったが、なかでも教育先進国であったスイスに赴く者が多く、ヘルバルトも1796年から(ヘーゲルの後任として)シュタイガー家の家庭教師となった。このスイス時代(1796−1800)に彼はペスタロッチに会い、子供の自然な発達と自律を強調するその教育学に深く影響を受けた。
ところでこのスイス時代こそ、ヘルバルトが後の独自の哲学の構想を抱いた時期だとされている。だが残された二つの断片からはそのようなことは伺えない。一つ目は哲学を行うにあたっての一般的なアドバイスを述べたものであり、もう一つでは統覚の統一がいかにして可能であるのかという問題に取り組んでいるが、その考察はまったくフィヒテ的なものであって、ヘルバルトは相変わらず知識学の修正をもくろんでいたことがわかる。
ヘルバルトはスイスで後期思想を胚胎したという説の出所は、実はヘルバルト自身にある。彼は1798年に、自分は新しい方向に向かっていると手紙にしたためているのだ。だが具体的にどういう考えがあるのかは全くつまびらかにしておらず、また別の手紙では、今はまだ材料を準備してるだけだと微妙な態度を見せている。この態度から考えても、やはりヘルバルトはスイス時代にはまだ知識学を引きずっていたのだろう。ただしこの時期、フィヒテ本人との人間関係が冷えてきたことは事実で、この人間関係的な自立がのちに知的な自立をもたらすことになった。