えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「「心的出来事と脳」へのコメント」 Feyerabend (1963)

http://www.jstor.org/stable/2023030

  • Feyerabend, P. (1963). Comment: Mental Events and the Brain. Journal of Philosophy, 60(11): 295–296.

 シャッファーの考察〔Shaffer, J. 1963. Mental events and the brain〕とそこで参照されているこれまでの議論から非常にはっきりとわかるのは、心的出来事と脳過程にかんする同一説はどんなものであれあるジレンマを抱えているということだ。この種の仮説を提唱するのはふつう生理学に好意的な思想家で、こういう人々はまた経験主義者でありたいとも思っている。生理学に好意的であるからには、心的過程は物的性格を持つと主張したかろう。そして経験主義者であるからには、その主張は心的過程にかんするテスト可能な言明であってほしかろう。この二つの傾向は、次のような形式の経験的言明の中で組み合わされていく。

-(H) XはAという種類の心的過程である ≡ Xはαという種類の中枢神経過程である

 だがこれが裏目に出る。この仮説は、心的出来事が生理学的属性をもつことを含意している(そうなるように作ったのだ)。だがそれだけではなく、右から左に読んでみれば、生理学的出来事(つまり中枢神経過程)が物的でない属性をもつということも含意してしまうようにみえる。従ってこの仮説は、出来事の二元論を属性の二元論で置き換えてしまっているのだ。それだけではない。この帰結は生理学者が持説を定式化したその仕方の産物であると思われる。いくら本人が一元論を確信していでも、その一元論の内容が、まさに二元論的なものの見方を強いるようになってしまっているのだ。

 二元論者にしてみれば、この困難こそ一元論が擁護不可能であることの証だということになろう。だが、この結論はあきらかに早急だ! 仮説Hは二元論を含意する。だがここから二元論が正しいと言えるのは、Hが真であるばあいの話である。もし一元論が正しいなら、Hは偽なのであり、普通の(つまり非唯物論的な)意味での心的過程というものは存在しない。このことが何を示しているかといえば、経験的仮説としてのHの内容にかんする議論は、一元論と二元論の争いを決するのにはまったく十分でないということだ。また、Hを擁護する一元論者は自己弁護の仕方を間違えているということもわかる。
  
 一元論者がとるべき適切な処置は、既存の〔心的な〕術語系に訴えない形で理論を展開することだ。もしどうしてもHを使いたいと言うなら、これは「心的過程」を再定義するものとして使うべきなのだ(〔心にかんする〕古い術語系を永遠に使い続けたいならの話ではあるが)。以上の措置をとっても、一元論者の理論の経験的性格は失われない。考えても見てほしいのだが、てんかんの生理学的理論のなかには、神学的な意味で「悪霊」が出てくる句、「悪霊にとりつかれた」は全く登場しない。しかしだからといって、この説明が空虚なトートロジーになることはなかったのだ。〔唯物論は、〕〔既存の心的術語系とは〕独立の予言を十分に行うことができるし、実際のところ唯心論がこれまで提出しえたものより多くの予測を行うことができる(これは、知覚の生理学という優れた領域について考えればすぐ分かることだ)。

 だが、このような議論に対しては、決まって投げかけられる反論がある。〔新しい言語を導入する際に、それが〕以前の言語との結びつきを確立しているのでなければ、私たちは〔新しい言語でもって〕何について語っているかわからず、したがって観察結果を定式化することも不可能になる、というものだ。この反論の前提は、一般的視点からの術語やそれに対応する言語の意味は、すべての人に親しまれまた理解されている別の視点からの術語と関係付けられることによってはじめて与えられる、ということだ。だがこれが本当に正しいとして、この後者の言語の親しみというのはどこから獲得されたのか。もしこの親しみが「外からの」助けなしに獲得されうるのだとすれば(明らかにそうだと思われるが)、その場合には、別の視点にかんして同じことが成り立つことを否定する理由は何もない(あるとすれば、日常的語法は私たちが幼いときに学んだものであるという点だが、子供ならよくできることを大人の生理学者はできないとお考えなのだろうか)。さらにいえば、観察結果というのは常に特定の理論的背景との関連で定式化されるものだ(もうちょっと流行に乗って言うと、特定の言語ゲームとの関連で定式化されるものだ)。そして、生理学がそれ自体でこうした背景になれないと考える理由は何もない。以上の考察から次のように結論できる。人間に対する純粋に生理学的なアプローチの尤もらしさおよびその成否は、Hの分析の結果にはまったく依存していないのである。

 Hのような「橋渡し法則」は、説明と還元をめぐる近年の諸理論の中で最も重要な役割を担っている。以上のコメントが正しければそうした理論は、理論構築の成否にかんする尺度としては不適当だということになるだろう。