えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

政治と道徳の分離 コゼレック 1959[1989]

  • Koselleck, R. (1959)[1989]. Kritik und Krise: Eine Studie zur Pathogenese der bürgerlichen Welt. Freiberg/München: Verlag Karl Alber (1989, 村上隆夫訳, 『批判と危機:市民的世界の病因論のための一研究』, 未来社)
    • 第一章・第二章

ちょっと難しすぎてかなり怪しいメモと化しているのですが一章と二章の分をおいておきます。

【要約】
宗教的紛争を解決すべく、絶対主義は道徳と政治を切り離した。だが後の啓蒙主義にとってこれは単に政治が不道徳であるだけと映った。啓蒙主義者たちは、政治から切りはなされた道徳の領域を利用して絶対主義との闘争を準備した。

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 16世紀後半の宗教的内乱と絶対主義、そして啓蒙主義はひとまとまりのものだ。宗教戦争を最も徹底的な絶対王政で乗り越えたフランスでこそ、啓蒙主義が頂点に達した。

 全ての党派が己の良心に従い平和を目指しているはずなのに、内乱は終わらない。そこで絶対主義は、宗教から独立した政治の領域を確保することで、平和をもたらそうとした。君主は自らの上に宗教を置かない(「領土が属するものに宗教も属する」)。臣下もかつては教会その他の秩序中で責任ある地位についていたが、このような秩序の多元性こそ内乱をもたらす元である。そこで今や各人は己の「良心」の声を内に押し殺し、君主に絶対的に服従することが求められる。このとき、混乱あるいは平和の責任は臣下にはなくなり、君主にあらゆる責任が一極化する。ただしこの責任を適切に果たす限り、君主の権力行使は無罪である。このため、君主は権力の行使を確実なものとするためにさらなる権力を求める論理にはまった。こうした内乱から絶対主義が生じるプロセスはホッブズの国家論の中に予見的に描かれている。

 宗教から独立したことで、諸国家は互いに鋭く相対するものとなった。万人の万人に対する戦いは道徳的人格としての国家間の問題である。しかしここでも、どの国も自らが正しいと信じて振る舞うのだから良心はあてにできない。国際法はかつてのように道徳的、自然的なものではなく(グロティウス)、政治的、人定的なものでなければならない(ヴァッテル)。

 このように道徳と政治を分離し前者を後者に従属させることでヨーロッパの政治的安定がもたらされた。しかし道徳と政治の分離は、政治に関連するパブリックな行いと、政治と関連しないプライベートな心情との分離でもあった。そして政治に関係ないとされた内面の道徳性こそ、絶対主義に対して啓蒙主義が強調するものだった。内乱への対処という起源が忘れられると、絶対主義は単に不道徳なものだとみなされた。君主の権力行使は良心を忘れているので常に有罪である。

 だが啓蒙主義の展開とともに政治と道徳の境界はずらされていく。ロックは神の法と国法の他に「意見あるいは世評の法」を認めた。この市民的な法は人間の内面から生じたものだが、私的なものではなく、クラブなどの「社会」のなかで実際に拘束力を発揮する。議会と国王が協力し合う英国の事情を反映し、ロックは私的な立法と国家の立法が競合するとは考えなかったが、両者は大陸では競合関係に入った。

 フランスではルイ14世の時代に新たなエリート層が形成された。この層は絶対王政下では満足な地位にありつけない人々からなる異種混交的なもので、反抗的な貴族、富裕な市民、そしてこれらの集団とイギリスとの接点となった亡命者らからなる。この層の人々は、証券取引所、喫茶店、アカデミーといった非政治的な場所に集結しつつ、そこで新たに「社会的」な制度を形成しつつあった。
 
 こうした制度は絶対主義への脅威とみなされると攻撃を受けたが、秘密主義によって攻撃を回避した組織があった。フリーメイソンである。メイソンリーの内部では平民も貴族も平等であり、自由に考え行動する。この国家からの自由・独立がまずは秘匿された。この秘匿は、やはり道徳と政治の分離に依拠していた。つまり、メイソンリーはすぐれて道徳的な組織で政治に関与しないからこそ、絶対王政下に存在できるのである。だがこの分割は、政治を外部から道徳的に評価、疑問視することを可能にするものでもあった。道徳的目的を推し進めていけば、政治的帰結を生むことは避けられない。こうして絶対王政に対する闘争の基盤が準備されていったのだが、そのことは見かけ上の非政治性によって秘匿された。

 似たような政治への間接的関与が、学問の共和国でも見受けられた。「批判」の政治的な意味が増大していく様を歴史的に跡づけてみよう。人文主義者は、はじめ文献学的な聖書研究にこの「批判」という語を使った。さらにピエール・ベールは批判と理性を強く結びつけ、批判はより一般に、理性的思考により正しい認識を獲得する技となる。批評家の義務は、未来に獲得されるべきあらゆる真理に向かって批判を前進、進歩させていくことだ。だがベールは批判と国家の分離を維持していた。国家に対しては批判を向けないことで、学問の共和国内部での批判の自由が確保されるのである。

 しかしここでもやはりこの分離こそ徹底的な政治批判を可能にするものとなった。ヴォルテールは見かけ上非政治的な文学、美学、歴史的批判を行うことで、教会と国家を批判していく。かくして批判は文芸共和国と国家の線引きを超えていくのだが、その一方で政治との対比から得ていたはずの道徳性は放棄しなかった。そして、ヴォルテールは自分が公式には非政治的立ち位置から発言しているとわかっていたが、次の世代はそれを忘れ、自分たちこそが真の主権者であると信じた。ここに啓蒙主義の欺瞞、偽善がある。批判される支配者は常に悪であり、批判する側は常に善なのである。このように進展する批判の上に革命があり、さらに革命家たちも同じ論理によって破滅した。

 はじめ批判は国家には向けられなかったが、逆説的なことにやがて批判と国家の二元論的な分離は取り除かれた。そしてカントに至っては、国家に対する批判の支配要求は完全に明示的なものになっている。