Moral Psychology: Free Will and Moral Responsibility (A Bradford Book)
- 作者: Walter Sinnott-Armstrong
- 出版社/メーカー: A Bradford Book
- 発売日: 2014/02/21
- メディア: ペーパーバック
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- Sinnott-Armstrong, W. ed. (2014) Moral Psychology
- Ch.1 Nahmias, E. Is Free Will an Illusion? Confronting Challenges from the Modern Mind Sciences.
- Ch.5 Mele, A. Free Will and Substance Dualism: The Real Scientific Threat to Free Will?
- Ch.5.1. Nadelhoffer, Th. Dualism, Libertarianism, and Scientific Skepticism about Free Will
- Ch.5.2. Vargas, M. Reconsidering Scientific Threats to Free Will ←いまここ
- Ch.5.3. Mele, A. Reply to Nadelhoffer and Vargas
同意点
- ほとんど全てに同意
- だが「真の脅威を見過ごしている」という批判に答えているか?
不同意点?
- Vargas (2009) がメレに対置させた立場をメレは実体二元論だと解釈した。
- しかし強調したかったのは別の点だった
- 「自由意志の適当な構想にしたがえば、われわれは自分の行う事の究極な源泉であるという事になっていなくてはならない」
- しかし強調したかったのは別の点だった
- このアイデアを現金化する方法は色々あり、実体二元論はそのなかの(望み薄な)一つにすぎない。
- なぜ科学がこの「源泉性」を脅かすと思われるのか?
- 人間は物質で構成されていると科学は示す。すると、人間のもてる物質的な力は、我々を構成する物質によって与えられていることになる。しかしその物質は因果連鎖の単なる一部でしかないので、我々を特別なもの、自分の行うことの究極的な源泉にしてくれるものは何も無い。
- 科学的懐疑論という「懸念の核心部分を生んでいるのは、〔科学の〕広範に還元主義的な要素である」V (2009)
- 人間は物質で構成されていると科学は示す。すると、人間のもてる物質的な力は、我々を構成する物質によって与えられていることになる。しかしその物質は因果連鎖の単なる一部でしかないので、我々を特別なもの、自分の行うことの究極的な源泉にしてくれるものは何も無い。
- ここで非還元的構成要素(例えば実体二元論)や創発的力に訴えることは出来ない。決定が低次の神経機能の観点から完全に解明されるなら、「源泉性の要請」を満たすような実体や因果的性質などの存在は否定される。
- 多くの科学者は「源泉性の要請」を必要とする自由意志の構想を持ち、懐疑論もこの観点から理解するのが適当ではないか。〔科学者が〕実体二元論〔を採るとして、それ〕は、より基本的な要請の表面への現れ=症状に過ぎない。
- この要請を診断し対処することが、実体二元論だけに注目するメレの議論には抜けている。
- ただこれは大きな反論ではない。
- この要請を排除、あるいは適切に現金化する様々な哲学的説明がある
- メレも別のところではかなり紙片を費やして論じている (Mele 2006)
- 不一致があるとすると……
- Mele (2009) は自由意志に関する実質的な理論に踏み込まずとも、科学的議論に取り組む事が出来ると考えていた。
- Vargas はやはり、科学者が操作する自由意志概念に関する実質的議論なしには、懐疑論を思いとどまらせる事は出来ないと思う。
- ただ今回の論文とかは相手の〔科学者の〕暗黙の確信を明らかにしようとしているし、この点もメレは多分反対しないだろう
どうしようもない=治らない点
- しかし自由意志に対する科学的脅威は根絶できないのではないか
- 主張・受容・認可・推論・反論などの〔信念に関する〕心的活動は複雑な傾向性の束からなると分かったとする。
- 「信念エコノミーの要素」たるこれらの傾向性は、人の信念エコノミーにどのようなコミットメントがあるかを推論したり帰属したりする際の基盤となる。
- こうしたコミットメントは「まばら」であり。つまり我々はとくに新しい証拠もないのに、状況によって違う信念をもつ。
- 例:普段は無神論者だけど、塹壕では神を信じる/普段は別にホッピー好きではないけど、クラフトビール信者と飲む時はホッピーを好む。
- これは不整合かもだが、我々はふつう自分に対しても他人に対してもある程度の不整合性は許容している。整合性への圧力がどのくらいかかるかは、心理・社会的要因によって様々。
- 我々の「信念」は様々な傾向性のごちゃ混ぜであり、これらの傾向性がどう発現するかは心のその他の側面とも絡み合っている。
- 信念関連傾向性のなかには自由意志(決定論、二元論、還元主義)に関わるものもあるが、これも多分ごちゃ混ぜ的
- 自由意志の問題をどう提示・フレーミングするかによって、信念エコノミーのことなる側面が活性化されるはず
- それが二元論や物理主義や決定論へのコミットメントにどう反映するかは複雑。どの程度信じているかは他の要素に左右される。
- 自由意志に関する「確信」を支えるのは、まばらで、うまく振る舞いに結びつかず、合理性も不十分で不整合な思考の網でしかない。
- 自由意志の問題をどう提示・フレーミングするかによって、信念エコノミーのことなる側面が活性化されるはず
- このことの2つの帰結
- (1)〔決定論的〕シナリオで、自由意志や責任があると多くの人が考えるのは驚くべきことではない。
- 比較的浅いコミットメントなら見つけられるかもだが、様々なシナリオに一貫した回答は出ないだろう。実験屋には常識である。
- ふつうの人は実体二元論(行為者因果、強い他行為可能性……)が自由意志に必要だというコミットメントをそれなりに持つだろうが、それは(少なくとも調査の文脈で)その要素が他の要素を上回っていると言うだけの話。
- (2)〔素朴な思考と科学理論では求められる整合性が違い、これが科学による脅威を生む〕
- 理論とは信念エコノミーの特権的な固定化である。
- よい哲学—科学理論は、曖昧さを排除し、〔理論とは一見〕異なる反応を説明し、実質的なコミットメントを明確化する。
- また一貫性・整合性への圧力が極めて強い
- 実験や理論が我々の概念の素朴な要素と衝突するとき、科学は我々の自己理解には問題がある〔=我々の自己理解がそう整合的ではない〕ことを思い出させている。
- 〔現象を全て説明するのが理論なのであり、人々に圧力をかけてくる〕理論はまともな「理論」ではないと哲学者は言うかもしれない。
- しかし、何かが乱れていると科学者が主張するのは多分正しい。自由意志に関する我々の思考のうち(明晰に把握されている部分ではないかもしれないが)とにかくどこかの部分は、実際に脅かされている。
- 科学による脅威に対する哲学の診断は、ほとんど不治の病の診断なのかもしれない。
- 理論とは信念エコノミーの特権的な固定化である。
- (1)〔決定論的〕シナリオで、自由意志や責任があると多くの人が考えるのは驚くべきことではない。