えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

20世紀初頭における哲学者と心理学者のポスト争い ジーク (1988)[1997]

大学と哲学―マールブルク大学における哲学史

大学と哲学―マールブルク大学における哲学史

  • 作者: ウルリヒジーク,Ulrich Sieg,東洋大学井上円了記念学術センター大学史部会
  • 出版社/メーカー: 理想社
  • 発売日: 1997/03
  • メディア: 単行本
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  • Sieg, U. (1998). Die Geschichte der Philosophie an der Universität Marburg von 1527 bis 1970. Marburg: Hitzeroth (1997, 東洋大学井上円了記念学術センター大学史部会訳, 『大学と哲学:マールブルク大学における哲学史』, 理想社)

 この本は、マールブルク大学での哲学の様子を、大学設立から現代まで追いかけるというちょっと珍しい構成の本です。デカルト哲学をめぐる論争からヴォルフの活躍、そしてナチスの問題に至るまで様々なトピックが扱われており、面白い、知らなかった記述がたくさんありました。

 さて哲学でマールブルク大学とくれば、新カント主義の一派閥としての「マールブルク学派」です。本書でもこの学派は大きく取り上げられていますが、なかでもその衰退の様子、とくにヘルマン・コーエンの後任人事にかんする下りはかなり興味深く読みました。本書によればーー若干話ができすぎているような気もしますがーーそれは次のような出来事でした。

   ◇   ◇   ◇

 第二帝政期のドイツ。大学では自然科学者がますます力を増すようになっています。これに伴い、フンボルト的な「教養」の意義が疑問にふされ、哲学を拒否する傾向も増していました。マールブルク大学でも、「マールブルク学派」は孤立をふかめていきました。

 そんな1912年、マールブルク学派の代表的人物、ヘルマン・コーエンが大学を辞任することになります。後任人事の問題が生じます。コーエンと、それからこれもマールブルク学派の代表者として有名なパウル・ナトルプは、彼らの優秀な弟子エルンスト・カッシーラーを推薦しました。

 ですがこの提案は他の教員たちの個人的な反感や人種的偏見(カッシーラーはユダヤ系でした)により却下されてしまいます。そのかわり後任となったのは、エーリヒ・ルドルフ・イェンシュ(Erich Rudolf Jaensch 1883-1940)という実験心理学者でした(当時心理学は制度的には哲学科のもとにありました)。彼の純粋に実験的な知覚研究が自然科学者たちに受けたようです。

 ナトルプは「フランクフルト新聞」紙上でこの人事を政治問題化し、学生の中でも新カント主義の伝統の存続をもとめる声が強くあがりましたが、結局決定が覆ることはありませんでした。

 この人事はつまり、「哲学を犠牲にして実験心理学が広がる」ということを意味します。これには多くの哲学者が危機感をおぼえ、各地の哲学科代表者100名以上が、マールブルクの哲学者たちとの連帯を表明する署名にサインしました。しかもその多くが、新カント主義と対立する学派の哲学者のものだったというのですから、この人事がいかに脅威であったかわかろうというものです。



 ところで、このエーリヒ・イェンシュという心理学者はどのような人物だったのでしょうか。本書によると、彼は哲学にかなり否定的な人物でした。彼はむしろ心理学を哲学から独立させようとつとめ、マールブルクの哲学科には「哲学部門」と「心理学部門」が設けられることになります。また彼は根っからのナチ党員でもあり、心理学のますますの独立にも役立つと、心理学を軍事・経済・ナチのイデオロギー正当化に利用していきました。

 このようにマールブルクの心理学はナチ政権下で活気を増してきました。一方で哲学の方にも親ナチ派はいましたが、政治的介入の影響もあり衰退していきます。このとき授業を禁じられたカール・レーヴィットがイタリアを経由して東北大学にきたのは有名です。そして1940年からは、ついに哲学の教授はユリウス・エビングハウス(心理学者のエビングハウスの息子)ただひとりという状況にまで追い込まれました。

 終戦後、エビングハウスは哲学者として初めてマールブルク大学の総長となり、大学再建に尽力していくことになります。