えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

オーストラリアにおける心脳同一説のはじまり Presley (1967)

  • Presley, C. F. (ed.) (1967). The identity theory of mind. Brisbane: University of Queensland Press.

 現代の心の哲学における「心脳同一説」の起源は、1955年オーストリアのアデレード大学に遡ります。かつてライルの学生であった若きプレイス(31歳)が心と脳の同一性を唱え始め、周囲の人々を次々に「改宗」させていきました。そのなかには、同じくライルの学生で当時哲学科の主任教授をつとめていたスマートが含まれていました。この動きは、のちに「オーストラリア唯物論」(オーストラリア実在論)といわれるものの大きな一部となっていきます。
 以下に訳出したのは、1964年にメルボルン大で行われた心脳同一説かんするシンポジウムをもとに出版された著作の序文と序論(の前半)です。編者のC. F. Presley (当時クイーンズランド大学)の手なるこれらの文章は、オーストリアにおける心脳同一説の最初期の展開のようすを伝えています。

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序文

 1964年8月、オーストラリア哲学会の年会がはじめてブリスベンのクイーンズランド大学で開かれた。この会では複数人が原稿を用意できるようなシンポジウムのトピックを用意する旨、すでに前回の会合の時点で合意があり、D. S. Mannison氏はこれに「心の同一説」を提案なされた。1963年にオーストラリアに来た氏は、本国の哲学者がこの説について活発に議論するのに強い印象をおぼえておられたのだ。そこで、「心の脳状態説」という看板のもと登壇者が集い、彼らの原稿をおさめたのが本書である。ただし、D. M. Armstrong 教授については、すでにこの説にかんして一冊ものされているため、加わっておられない。

 シンポジウムでは5本の論文が読まれ、それらが一冊の本となる予定であったのだが、ふたを開けてみると、5本中2本に J. J. C. Smart教授の「感覚と脳過程」を検討した部分があり、そしてもっぱらこの論文の検討のみに捧げられたものも1本あった。このため、本書はスマート教授のコメントによって締めくくられるほかなかろうということになった。だが当時私は病床にあったもので、回復まで出版が遅れるだろうと察したBrian Medlin氏は、1965年のうちに会合のさいに読み上げられ原稿に手を入れ、これを他の原稿よりもかなり長いものに改稿なされた。この論文は他の原稿の読み上げの後に書かれたことになるため、これはスマート教授のコメントの後ろにまわし、またこの論文に対する応答が書かれてしかるべきではないかと、何人かの登壇者から要望をいただいた。私はこれを容れ、かくして本書の構成ができたものである。

序論

1. オーストラリアにおける同一説

 D. L. Gunner 氏は本書で、J . J. C. Smart教授の論文、「感覚と脳過程」 について論じている。C. D. Rollins 博士は、スマートとU. T. Place氏によって定式化された同一説を検討しており、Peter Herbst教授はおもにスマートが提示した形での心脳同一説を批判している。つまりこれら3論文はすべて、Mac Deutscher教授の言うところの「最新の体を手に入れた……唯物論」に対するスマートの寄与に関連したものとなっている。

 スマートによれば、この再生はアデレードで起こった。1955年、プレイスは自らの提唱する同一説をスマートとC. B. Martin 教授に対し説明・擁護し、両者から反論を受けた。当時プレイスとマーティンは共に〔アデレード大学における〕スマートの学科のメンバーであり、ガンナーはすこし前にそこを去ったところであった。スマートはそれまで、「まったくのライル派」をみずからもって任じていたが、結局プレイスの見解に転向することになった。この改心は、1957年、客員研究員としてプリンストンにおもむき、ウィトゲンシュタインとライルについて学部向けの講義をおこなっていたときのことだったという。同じ年の11月には、コーネル大学でプレイスの見解を擁護する原稿を読んでいる。

 Brian Medlin氏とM. C. Bradley氏はどちらも1957年にアデレード大学を卒業しており、最終学年をマーティンの指導のもとで過ごした 〔。メドリンは現在アデレードのフリンダース大学〕。ドイチャーも同じ学科を2年後に卒業している〔。現在はシドニーのマッコーリー大学〕。メドリンはオックスフォードで同一説に転向し、本書ではこの説を『心の概念』にもとづく特定の反論から擁護している。またドイチャーの見立てでは、同一説は心物問題を解くものというよりは、この問題を最終的に解くだろう新しい道筋を示唆するものである。ブラッドレーはスマートの『哲学と科学的実在論』について批判的に検討し、性質がもちうる同一性は論理的同一しかないという見解を示しているが、ドイチャーはこれに反対している。

 ここまではアデレード大学関係者だけを見てきたが、同一説の擁護者が他にいないという訳ではない。ガンナー、ロリンズ、ハーブストが主に検討しているのが彼らの著作なので先に紹介したまでである。ここで補足しておきたいのだが、何かを信じさせるという点においてマーティンは文献よりも圧倒的な影響力をもっていた。スマートとプレイスは同僚として、ブラッドレー、メドリン、ドイッチャーは学生として、マーティンとの議論から大きな影響を受けてきた。議論の中で彼は、強く、深く、そして巧妙に同一説に反論したのだった。近年、様々な概念の説明において因果性に根本的な役割を与える一群の哲学者がおり、ここにはD. M. Armstrong教授やドイッチャーそしてメドリンが含まれるが、この集団の出現はマーティンに負うとメドリンは考えている。

 アームストロングは現在シドニー大におりアデレードにいたことは一度もないのだが、彼は1963年、内観的知識の訂正不可能性に反対し、そしてこの点は、「心的状態は偶然の事実の問題として脳状態と同一であるというJ. J. C. スマートらが近年展開しているテーゼ」の擁護になると主張した*1。ここで指摘しておきたいのだが、アームストロングはシドニーのJohn Anderson教授の生徒であり、アンダーソンは自身の提出する心の説明が「心である……脳過程の生理学的な(それが身体的過程一般とどう関係しているかという点での)検討と協力関係にあることがわかる」であろうと1934年の時点で述べている*2。ただここで私は公言された明白な影響関係だけを問題としたいので(より深い歴史的考察は現時点の私にはできないと思われる)、アンダーソンにかんする以上の所見は十分注意して扱わなければならない。もしアンダーソンの心の理論が同一説だった場合、それは本書が問題にしているのとはあきらかに別の再生だということになるだろう。それに、アンダーソンがアームストロングに与えた影響が後世どう評価されるとしても、影響が否定されることこそなかれ最重要だとされることもないと私には思われる。

 ハーブストは主にスマートの同一説を検討しているが、同時にアームストロングとH. Putman教授の仕事にもふれている。スマートは本書に収録された最初の4つの論文にコメントする中でP. K. Feyerabend教授の仕事に言及している。ファイヤーアーベントが私信で述懐するところによると、彼は1957年に「プレイスの見解に転向した」(これは非常にうまい言い回しだったのでよく憶えている)。そのころまでにはファイグルを読んでいたそうだ。パトナム、ファイヤーアーベント、ファイグルと言及すれば、心の同一説への関心は一定のオーストラリア哲学者の奇癖などではなくむしろ持ち味であることも十分示せるだろう(示す必要があればの話だが)。ファイグルは自身の見解を「[Alois] Riel、Schlik、Russell、そしてとっぴなところもあるが天才的な [Richard] Gätschenbergerに共通の認識論的態度をより現代的な観点から発展させたもの」であるという注を書いているが、私自身のアンダーソンにかんする所見同様、このあたりの話は序論の範囲を超えているだろう*3

 ここまで、現在メルボルン大にいるガンナーについては少ししかふれられず、オーストラリア国立大学のロリンズとハーブストにはほとんど言及できなかった。というのは、ここまでの私の主要な関心がオーストラリアにおける同一説のはじまりを概観することにあったからだ。この文脈においては、おそらく彼らの願いには反することになるが、彼らは同一説の批判者であると特徴付けざるをえない。

*1:"Is introspective knowledge incorrigible?", p. 418

*2:Studies in Empirical Philosophy, p. 74

*3:"The 'Mental' and the 'Physical'", pp. 446−447 n.