- 作者: Lorraine Daston,Peter Galison
- 出版社/メーカー: Zone Books
- 発売日: 2010/11/05
- メディア: ペーパーバック
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- Daston, L. & Galison, P. (2007). Objectivity. New York: Zone Books.
第一章 目の認識論 ←いまここ
第五章 構造的客観性(前半/後半)
見ずに見る
科学的客観性には歴史がある。主観の痕跡のない知識という意味での「客観性」は、いつ・どのように現れたのか。この歴史を図像の観点から取り上げるのが本書だ。図像作成の基になってきた認識的徳は3つあった。すなわち「自然の真相」(truth-to-nature)・「機械的客観性」(mechanical objectivity)・「熟練の判断」(trained judgement)だ。三つの徳は継起的に現れてきた。ただしこれらはパラダイムのように断絶している訳ではなく、相互に影響を与えつつ実際の図像制作場面で時に共存・時に矛盾したりしてきた。
集団的経験論
科学は過去および同時代の様々な研究者との共同で進む「集合的経験主義」であり、これは標準化された「研究対象」(working objects)なしに営むことはできない。図像集(atlases)は研究対象の編纂集であり、少なくとも17世紀以来、何をどう見るべきなのかを示すことで科学者の目を鍛え上げてきた。図像集は科学を作り出すのだ。
客観性は新しいものである
客観性は19世紀中盤に現れた。これは近代科学の成立時期と合致していない。言葉で見ると、「客観的」・「主観的」が今日的な意味を獲得したのは、カント哲学が欧州各国で変形を被りつつ受容された1850年頃である。また「事柄」としての客観性もそれまでの認識論では問題にされていない。例えばベーコンのイドラで心に関係するのは劇場のイドラ一つしか無し、対処法も主観性を抑えよというものではない。客観性の歴史は認識論の歴史の一部にすぎないのだ。19世紀中頃になって科学者は、美化し理想化し観察を理論にあわせてしまう「主観」の脅威に直面した。
科学的自己の歴史
19世紀中盤には様々な社会・経済・技術的発展があったが、本書はこれらによる因果的説明ではなく、個々の現象のパターンを指摘する内在的説明を重視する。〔そのパターンこそ〕この時期に現れ、主観を打ち出す「芸術的自己」と対置された「科学的自己」である。己の「意志」の影響を最小化すべく、ラボでノートをつけること、グリッドにそって図を書くこと、注意力を鍛えること、といった具体的行為を繰り返す中で科学的自己はつくられる。こうした「自己の技法」が同時に客観性の技法でもある。
認識的徳
科学的探求の記述のなかではしばしば、探求者のあるべき姿が道徳的色彩を帯びて語られる。科学を極めることは自己を極めることであり、認識的徳は己のありかたにかかわる倫理的徳でもあるからだ。
議論
本書の構成。18世紀と19世紀前半の画像は選別・理想化を旨として制作されたが(2章)、19世紀中盤以降こうした方法は「主観的」とされ、人の手に染まっていない図像がよしとされた(3章)。欧州各国でのカントの科学的な受容により、機械的客観性に対応する科学的自己が現れてくる。有徳な人物像も、それまでの「賢者」から「根気づよい労働者」に、(そしてその後「直観を備えた専門家」に)変化した。しかし機械的客観性を反映した画像は雑然としており、「研究対象」を生み出せなくなった(4章)。これに対する一つの応答として「構造的客観性」の信奉者が現れた。彼らは図像自体を主観的だとしたが、ここで敵視された「主観」とは意志を持つ自己ではなく、自己の経験世界に閉じ込められた私秘的な自己であった(5章)。別の応答として、「熟練の判断」の重要性が強調されるようになった。いまや専門家は意志の影響を減らそうとするどころか、無意識的直観に信をおくのである(6章)。そして近年、科学的図像はさらにあたらしい局面を迎えている。コンピュータ・シミュレーションによって生み出される画像は、もはや表象ではなくて提示そのものとなる。科学と工学は融合し、新たなエートスが生まれつつある(7章)。
普段着の客観性
本書には客観性に対する認識論的・道徳的批判は無い。批判の前にはそもそも客観性とは何であるかを知ることが必要だ。日々の訓練によって身につけられ図像において顕在化する、普段着の客観性を理解すること。それが客観性に対する批判にさらなる光を投げかけるはずだ。