えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

これが理由内在主義だ Williams (1989)

Making Sense of Humanity: And Other Philosophical Papers 1982?1993

Making Sense of Humanity: And Other Philosophical Papers 1982?1993

  • Williams, B. (1989). Internal reason and the obscurity of blame. Reprinted in his Making sense of humanity. Cambridge, MA: Cambridge University Press, 1995.

 理由内在主義といえばWilliamsの "Internal and external reason" (1980) が有名ですが、この論文はものすごい何言ってんだこいつ論文でもあります。そこで、彼自身による解題がついた後年の論文をまとめました。とてもわかりやすくなっています。また、後半の「非難」を説明するという部分にも、「おお……」と思わせるポイントがたくさんあって勉強になりました。

   ◇   ◇   ◇

  • [1] この論文は、まず ”Internal and External Reasons” でとった自分の見解(内在主義)を解説し、次にそれを非難という問題に応用する。
Internal Reason
  • [2] 問題:「Aにはφする理由がある」形式の言明 [=理由言明] の真理条件は何か?
    • 内在主義: only if Aは、既存の動機群(S)から出発して健全な熟慮を経ることで、自分がφすべきだという結論に至ることができる
    • 外在主義:上の必要条件を否定。(熟慮を介し)φに導く動機がなくても、「Aにφする理由がある」は真となりうる
      • [3] (※上の条件は十分条件だとも思うが、今回はこの点には触れない)
  • [4] 誤解:〔内在主義は、理由言明の規範的力を無視している〕
    • 内在主義でも、「健全な熟慮」の存在によって規範的な力を認められる。
      • 理由言明は、「Aはいまφする傾向にある」以上のことを意味していなくてはならない。その一つの根拠として、理由言明は「人は何をする傾向をもつべきなのか」についての議論の中で用いられる。
    • [5] 「健全な熟慮」は少なくとも、事実と推論の誤りの訂正を含む。
      • ジントニックを飲みたいが、ガソリンが入っているグラスを誤ってジントニックが入っていると思いこんでいる人に、そのグラスを飲む理由はないだろう。
      • つまりここでは、人にどんな理由があるかを言うさいに、当人の信念・推論を正すことが許容されている。この点で、内在主義における理由言明も十分規範的である。
  • [6] 事実や推論の訂正の可能性は認めるのに、プルーデンスや道徳についての想定を何らかの基準に従って正すという可能性はどうして認めないのか?
    • そうすることもできた。そしてこの可能性が認められるなら、内在主義と外在主義の違いはほとんどなくなるだろう。
      • (※Sの中に一定のプルーデンス・道徳的考慮事項が既に含まれているなら、それはもちろん内在的理由にかかわる)。
    • [7] 〔では、このようにプルーデンスや道徳をoptionalなものとする一方で、〕事実・推論については一般性のある主張をするのは何故か。
      • それは、「合理的に熟慮する」行為者のSには、原則的に言えば、事実と合理性について正しくありたいという一般的な関心が存在するからだ。
        • つまり内在主義を採用すると既に、「健全な熟慮」概念の中に正しい情報と推論への要請を加える根拠があるということになる。その一方で、同じことはプルーデンスや道徳には言えない。
      • 全ての合理的に熟慮する行為者は道徳的制約にもコミットすることになるのだと言う人がいるかもしれない。だがそれを言うためにはさらなる議論が必要である。
  • [8] 誤解: 事実的な道徳言明(厚い語彙を含むようなもの)が存在する。なので、〔事実と価値を二分し事実の訂正しか認めない〕内在主義も〔、結局は価値にかんする訂正を行うことになり、外在主義と区別がつかなくなる〕。
    • 内在主義者が事実と価値の二分法に依拠しているというのは誤りである。たしかに、ある厚い概念を用いる行為者〔A〕は例えば毒を避けるのと同じように 〔潔れたものなどを〕 避けるだろう。
    • [9] だがこのことを認めたとしても、Aはその厚い概念を用いない別の行為者Xに対し「特定の行為を行う/行わない理由がある」と正しく言えるのだということにはならない〔。もしそうなら、内在主義と外在主義は区別できない。〕
      • この発言の正しさを示すには、行為者は「Xにはその厚い概念を使う理由がある」のだとさらに示さなければならない。
      • この点は、関連する行為者が同じ「文化」の中にいるという想定により隠されがちである。この想定が成立しない状況を内在主義者がどう記述できるかは難しい問題ではある。だがそのことは、外在主義の正しさや外在主義と内在主義の区別のなさを示す訳ではない。
  • [10] 続いて、「健全な熟慮」にはどのような種類の思考が関係するだろうか。
    • まず言えるのは、そこには「既存の目的に対する手段の把握」以外のものも色々含まれている。例えば……
      • 漠然としていたプロジェクトにはっきりした形を与える。
      • 新しい行為の仕方を創造する(ジレンマを破る場合のように)
      • 想定していなかった類似性を発見する
    • 熟慮的思考には色々な様態があり、一般的に決定できない。このため、人にどんな理由があるのかについては曖昧な概念化しかできない。
      • この点は内在主義の欠点とされてきたが、そうではない。人にどんな理由があるのかは、実際に曖昧なことがよくあるのだ。
        • 熟慮には知識や経験だけでなく想像力がいるが、想像が熟慮にどう寄与するかを完全に特定するのは不可能というのがこの曖昧さの理由の一つ。別の理由についても後ほど触れる[→B-10]。
  • [11] 内在主義の採用を促す根本的な動機が二つある。
  • (1)説明理由と規範理由の相互関係。
    • Aにφする理由があるなら、Aがその理由に従ってφすることが可能でなければならない。このとき、その理由はAがなぜφしたかの説明となるだろう。
    • なので、「Aがφする理由をもつ」という規範的言明は、その理由がAによるφの説明になるという可能性を導入するようなものでなくてはならない。このことは、Aがこの言明を受け入れる場合に可能になる。
      • ある理由がAの行為の説明であるなら、その理由はもちろん何らかの形でAのSのなかにあるだろう。なぜなら、人の行為がその人のSから説明されることは明らかだからだ。
    • [12] 内在主義なら、行為者が理由言明の真理を受け入れることでどのように特定の行為に導かれるかを説明できる。
    • だが外在主義的見解が正しく、現在のSといかなる関係もない理由がその人にあるのだとしたら、一体どうやってその人は自分にφする理由があると信じることができるのだろうか。
  • [13] (2)あなたは、知人がもっと妻に優しくすべきだとおもい、「もっと優しくする理由がるよ、奥さんなんだから」と説得しようとするが、どんなに頑張ってもこの人はこの理由を全く気にしようとしないとしよう。
    • [14] あなたがこの人に対して言えることは、ゴミだとか畜生とか、もっと優しくすればいいのに、とか結構色々ある。だが外在主義者が言ってほしいのは、理由言明(「この人には優しくする理由がある」)だ。
      • だがこの理由言明と、ある人の行動があなたの考えるあるべき姿に一致していなかった場合に言える上のような様々なこととの間に、何か違いがあるだろうか? 〔なにもないのではないか。〕
      • [15] 外在主義的な理由言明は少なくとも不明瞭だし、そのどれも真でないと強く思われる。思うに、外在主義的な理由言明だとされているのは、実際は楽観的な内在主義的理由言明なのではないだろうか(つまり、その言葉を浴びせかけつつ、いつかその行為者が関連する動機をもつことを願っているのではないか)。
Blame
  • [1]「非難」には〔不都合の〕原因を突き止め診断を下すという用いられ方もある(「ロケットが飛ばなかったのはバルブのせいだ」)。だが今問題にしたいのは、行為者の行為/不作為にかかわるより「絞った」適用法である。
    • 絞った非難は、道徳に反する事柄に関連する必要は無い。銀行強盗が相棒のミスにより失敗した際、この相棒への非難は道徳的規範にのっとったものではない。
    • だがこの非難には、よい生き方にかかわる[ethical]なんらかの次元が関わっている。この種の失敗の〔うち一体なにが非難に値するのかの〕説明には、不注意さ、怠惰、自己保身などが関係するだろう。
  • [2] 絞った非難は、「すべきだった」というかたちで行われることが多い。そして「すべきだった」と「できた」の間の必然的な関係は有名だ。
    • この関係が存立する理由はおそらく、行為の後の「すべきだった」という批判が適切なら、行為の時点では「すべき」という助言が適切なはずで、そして助言は相手に可能な選択肢でなければならない、という点にある。
    • [3] もしそうなら、「すべきだった」とは、「行為者には理由がある(あった)」ということを指しているのだと思われる。
  • だが、妻を全く気にかけていない上のような夫を非難できることからもわかるように、Sに適切な欲求がない人を非難することは明らかに可能だ。
    • すると、非難で問題となっている理由は外在主義的なものでなければいけないように思われる。
      • [4] では内在主義の立場から、絞った非難をどう説明できるだろうか?
  • [5] まず多くの非難は、Sに適切な直接的動機があったが〔、熟慮が不十分だったために〕それが適切な影響をもたなかった場合に行われることは押さえておきたい。
  • そして、Sのなかにより間接的だが関連した欲求がある場合がある。たとえば、〔妻を大切にしようという直接の欲求がなくても〕、他人と尊敬しあう(=非難されない)関係を築きたいという一般的欲求をもつ人を考えよう。
    • この場合に行われる非難は、「まさにこの非難の瞬間まではあなたには十分な理由がなかったかもしれないが、今はかくかくのことをする/しない理由がある」という事実を示す役割を果たす。
      • この非難はいわば、理由を予見的に喚起している。この非難は「あなたには理由があった」と言っているのだが、これは直接的な意味では〔=つまり行為の時点では〕真ではなかったかもしれない。だが、相手は互いに尊敬し合う関係を築きたいという一般的欲求をもっており、そして今他人の非難を受けて、他人が何を期待していたのか認識した。このことにより、「あなたには理由があった」はいまになったのである。
  • [6] 同じような予見メカニズムは、適切な直接的動機がSのなかにある場合にも関連してくる。この場合におこなわれる非難も、単に行為の時点での熟慮の失敗を指摘するものにかぎられない。
    • [7] そうではなく、「いまあなたにはっきりとわかる理由の全てを考慮に入れて熟慮しなおしてみれば、別の結論にたどり着くはずだ」と言っている場合がある。
      • そしてこの「今はっきりわかる理由」のなかには、この非難の存在自体も含まれている。
  • [8] さらに同様のことは助言にも当てはまる。φせよという助言は、既存のSから熟慮を経ればφにたどり着くことがすでに決まっているという含意を持つとは限らない。当の助言自体が相手の熟慮に影響することで、φにたどり着くことが見込まれている場合がある。
  • [9] もちろん、上で指摘したような([B-5])間接的な一般的欲求を持たない人もいる。だがこうした厳しい事例は、内在主義的見解を反駁するというよりはむしろ支持する。なぜなら、私たちはそのような人を非難の適切な対象とみなさず、望みのない人間、危険人物として扱うからだ。
  • [10] こうした厳しい事例と内在主義で綺麗に説明できる事例の間には、道具的な矯正と非難のどちらが効果的なのか不明瞭な事例がたくさんある。
    • この不明瞭さには、理由言明の曖昧さもかかわっている([I-10])。だがさらに、非難する側には非難対象のSが不明瞭にしかわからず、予見メカニズムにどう頼っていいかよくわからないという事情もある。
      • だがこうした曖昧さは、私たちの実践と経験がもつ本当の特徴とマッチしているのであり、内在主義の利点なのである。一方外在主義は、この本当の難しさを反映させず、非難の適切性をどちらかの方向に無理やり落とし込んでしまう。
    • [11] 既に見たように外在主義は、人が理由を持つ条件や人がどのようにして理由に従って行為するようになるかという点について、不明瞭である([I-12])。このため、非難が行為者のもつ理由という観点から説明されるべきものだとすれば、外在主義は非難について何も言うことができない。なぜなら、行為者の理由・行為の失敗・非難の内容、という三者の関係を具体的な心理の観点から理解できないからだ。
  • [12] 外在主義は、私たちがどうすればよい人生をおくれるかについて何の有用な情報も与えてくれない。実は相手の行為を単に否定しているだけなのに、いやそれは相手の理由にかかわるのだと力づくで言い張っているようなタイプの非難と、〔熟慮を経た末に相手の〕承認をえることができると思われる〔真っ当な〕非難の間の違いを説明せず、私たちを道徳至上主義に導くものである。
    • [13] 一方で、上のような内在主義的な予見メカニズムは、非難というものは良き生に関係する独特な応答であることをよく理解させてくれる。また非難の働きの難しさ・不明瞭さを知解可能にするこうした自然な説明がなければ、道徳体系は砂上の楼閣であるという疑いが強まるばかりであろう。