An Introduction to Metaphilosophy (Cambridge Introductions to Philosophy)
- 作者: Søren Overgaard,Paul Gilbert,Stephen Burwood
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 2013/03/07
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログを見る
- Overgaard, S., Gilbert,P., & Burwood, S. (2013). An Introduction to Metaphilosophy. Cambridge University Press.
Ch. 3 Philosophy, science and the humanities
序論
- ホーキング:世界をそのあるがままの姿で記述・説明するのは科学だけであり、哲学に独立の探求の余地は残されていない。
- こうした見解をとるものは哲学者にもかなりいる。自然現象について、「万物の尺度は科学である」(Sellars 1991)。
- だがこの見解は本当に正しいのだろうか?
科学:達しがたい偉業
- ルネサンスから初期近代にかけて、体系的な観察と実験による自然の探求が始まった。ただ、この探求には哲学者も重要な貢献を続けていた。
- なので、ますます細分化する科学の実践者を「哲学者」と呼ぶのは広すぎるし偉そうだとして、ヒューウェルが1833年に「科学者」を提案した時、ここには若干皮肉があった。しかし、この細分化と哲学的貢献の減少は、知識の増加・特殊化とそれに伴う専門化から考えれば不可避であった。
- 多くの哲学者は以上の歴史の筋を受け入れ、自然現象についての新しい知識の発見と説明の発展を自然科学に任せている。そしておそらく、事物のあり方を明らかにするのに、科学は比類なく効果的だとも思っている。
哲学における進歩
- 科学の大きな成功は疑う余地がないかもしれないが、しかしそれとともに言われる「哲学が成功していない」という主張はどうだろうか。
- 一方で、哲学は一定のコンセンサスを達成している(心の哲学者でデカルト的二元論者はほとんどいない)し、哲学的理論の洗練の過程で知識が増えているとも言える(Williamson 2007)。論理学の進歩は明らかだし(Dummett 2010)、通常の哲学的論争でも問題の構図や諸学説はますます明確化されている(Lewis 1983)。
- また、科学にも根本問題を巡る顕著な不一致はある(ビックバン、進化論)。
- とはいえ、科学には覆るとは到底考えられない「本当の成果」がある(血液循環の発見、地動説…)。一方哲学にはこのような成果が実際ないのみならず、哲学の扱う主題にはこうした高い安全性は無縁であるように見える。なぜなのか。
- 哲学の議論の仕方が見解の不一致を促すのかもしれない。全くオープンではないレトリックで相手を折伏させるのではなく、反論の余地を残して相手の自由な評価に基づいた説得をおこなうのがふさわしい。
- だがこれは学問の議論一般に言えることだ。
- むしろ哲学者自身が、その職業的気質として、同意より不同意を求めているのかもしれない。哲学者は延々と攻撃的で不一致にあふれた議論をする。
- だが、その反論は実質的なものでもある。既に見たように、哲学者は攻撃ばかりする割には案外同意点もある。哲学の論争はゆっくりとコンセンサスを達成する、協同的な不一致だと捉えられるのではないか。
大学に行くアリストテレス:思考実験
- だが理由はどうあれ哲学のゆっくりとした進歩は自然科学と対照的にみえる。アリストテレスが現代の大学に来たら、物理学の授業はさっぱりだが哲学や倫理では手をあげて発言するだろう(Dietrich 2011)。
- とはいえ、このような蓄積の存在により、自然科学が事物を記述・説明する唯一の道だと考えねばならなくなるかといえば、明らかにそうではない。
自然主義
- 自然主義にも色々あるが、ここではほぼ全ての自然主義者が受け入れる見解、「存在論的自然主義」を問題にする。すなわち、世界についての正確で完全な記述の中には、超自然的な存在者や力への指示は含まれない。
- この種の自然主義こそ、科学だけが万物の尺度であるという見解を受容する強い動機を生んでいる。
【ここまでのまとめ】
(1)自然科学の成功には議論の余地がない
(2)哲学は、言われるほどダメでもないが、科学に比する成功はほとんどない
(3)存在論的自然主義というまあ尤もらしい見解をとると、世界それ自体の記述をあたえてくれるのは自然科学だとおもわれる
→思弁的な形而上学は怪しいし邪魔である
- だがこの結論がでてくるのは、「世界について有意味あるいは重要なことを言う「唯一の」方法は自然科学の方法である」という「方法論的自然主義」(科学主義)が伴ってくる場合だけである。
クワインとウィトゲンシュタイン
- クワインの場合、存在論的自然主義と方法論的自然主義は相携えてきている。しかし後期ウィトゲンシュタインは、前者をとるが後者をとらない哲学の一例を示す。彼は人間の実践、とくに言語実践を記述し、概念形成や行為、発話の仕方の基盤となる「極めて一般的な自然の事実」を指摘する。
- だがこのアプローチを、経験的研究の特異なものあるいは拡張と考えてはならない。ウィトゲンシュタインはクワインとは違い、理論化を避け、言語学や人類学に道を譲るべきとは言わない。言語ゲームの記述の頼りになるのは、ある自然言語の話者にはわかるはずの理解であり、比喩や思考実験が用いられる。安楽椅子から離れる必要は無い。
科学的描像 vs 日常的描像
- 科学的に啓蒙された常識が私たちに提示する世界のあり方、「日常的描像」と、分子生物学や化学、物理学が示す世界のあり方、「科学的描像」の対比を考えよう。重要なのは、例えばテーブルの日常的な描像は超自然的なものに訴えないという点だ。両描像は両立する。そして哲学は「日常的描像」に特別の興味を注ぐと考えると、「哲学に独立の探求の余地」が開かれる。
- また哲学は道徳や美にもかかわる。これらについて客観的真理があるかもだが、それは科学が扱う「視点から自由な」真理ではないだろう。
- さらに、我々が、自分の知っているような世界にかんする理論が欲しい場合、日常的描像における真理は欠かせないものとなる。
哲学と人文学
- 哲学はむしろ、「我々自身とその活動を理解するより広い人文学的試みの一部」だと考えるべきではないか(Williams 2006)。実際ルネサンス以降、哲学は人間の研究として理解されてきた。
- 人間の研究は心理学のような科学もする。だが、ある仕方で世界を経験するものとして自らを理解すること、これがなお人文学と科学を分ける。
- 科学は例えば愛をつがいの絆の観点から説明する。しかし我々は、一定の理由により自分がなぜ愛するか説明でき、それが愛の主観的理解をもたらす。こうした理解を断念するとどうなるか、把握することも出来ない。「最大限客観的な観点からは理解できない事」(Nagel 1986)があるのだ。
- 人文学の中でも特に哲学は、世界に対する人間的な視点を、一般性を持つ形でとらえようとする。そのための一つの方法として、言語への注目がある。言語の記述は私たちの特定の世界理解のあり方の記述だからだ。こうした見解は「二階の分野としての哲学」という考えと親和的だが、言語以外にも概念的思考や非概念的知覚に注目にすることも出来る。
- 人文学的なアプローチによれば、例えば自由意志と決定論の両立可能性といった哲学的問題は、私たちの生きかたの問題だということになる。自由意志概念の論理的分析は、決定論的世界の中で生きる私たちが日常において自由意志という概念をどう取り扱うことが出来るか示すことをめざす。そしてそれは人生上の問題の解決でもある。こうしたアプローチはしかし、存在論的自然主義と非両立ではないのである。
- 近代において自然主義を否定するのは難しい。だが、私たちの日常的な見解がまったくの幻想だと主張するのも簡単ではない。この二つの見方の衝突の解決こそ、現代哲学の核心である。