えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

事実、虚構、怪物:地質学的復元とレトリック O’Connor (2007)

The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856

The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856

  19世紀、地質学はある問題に直面しました。化石の「復元」はどうしても想像力の産物という側面が強い。誰も見たことのない太古の光景や生物を――主張の事実性を損なわない形で――どう表象するか、という認識論的問題が生じたのです。この事実と虚構の溝をうめるのに、地質学者や一般向けライターは劇的なレトリックを用いました。
 科学はフィクションではなくliteral truth(文字通りの/書かれた真理)を扱うので、地質学者たちも復元の話は他の部分と同じレベルの事実を語っていると思われないよう、文体やテキスト配置上の配慮を行います。しかし復元は、テキストの事実らしさや、視覚的な科学的権威を生み出すのに大きな役割を果たしました。revelation, illumination, enlightenment、といったメタファーと共に促進されていた科学的探求は、「完全で一望的な視覚可能性」という幻想とともにありました。例えば、David Anstedの『古い世界、あるいは創造の絵画的スケッチ』は、復元が虚構であることへの注意喚起を巧みに用いています。〔巨大〕トカゲの光景の後に来る注意喚起「……こうしたことは絶対に確実だ。しかし、ここから示唆される結論をあえて言うことはできない」などは科学上の注意喚起というよりは興行師の物言いで、光景の劇的な効果を高めているのです。
 また古生物学的作業でも同じことが問題になります。太古の生物の記述はルネサンスの「怪物」制作よろしく現存の生物の特徴の寄せ集めによって行われていました(例:「プレシオサウルスは亀や白鳥に似ている」)。このため、ここにはでっちあげの可能性が開きます。実際、化石収集家アルベルト・コッホは114フィート(35m)もある「大海蛇」Hydrarchos sillimani (現在のバシロサウルス。推定15mほど)を復元し見世物興行を行っていました。地質学的復元に内包された事実と虚構の緊張は、別々であるべき部分が組み合わされること、すなわち「怪物性」の問題に結実していたのです。虚構性の注意喚起はこの問題に対する一般的な解決法で、これはいわば縫い目が全て見えるような怪物を作ることでした。
 
 事実としての化石と虚構としての復元を繋ぐのは、劇的で視覚に訴えるレトリックにより喚起された地質学的想像力でした。著者はこの想像力をとくに焚き付けたものとして、図像とテキストの相互作用、そして詩に着目します。
 今日では理解しにくいですが、当時は図像の証拠としてのステータスは自明なものではありませんでした。図像は言語に比べる荒い表象でしかないと考えられたからです。そこで、図像と行き来することでその解釈の導き手となるようなテキストが必ず存在し、やはり様々なレトリックが用いられています。著者は様々な例から図像とテキストの関係を分析していますが、例えばJohn Millによる子ども向け著作『化石のたましい』(1855)では、「これが私の骨です【骨の図像】」、「わたしが【プレシオサウルスの図像】」といった形でテキストと図像がスムーズに連結されるといった工夫が凝らされています。しかしこのようにかなり直接的に図像が提示される場合ですら、解説用のテキストが省かれる事はありません。読者の想像力を喚起するにはテキストとイメージの両方が必要だと考えられていたのです。こうした図像とテキストの相互作用は、図像へ着目する最近の科学史の傾向の中でも比較的見過ごされてきたものです。
 著者がもう一つ着目するのは、地質学書の中に見られる詩の引用、とくにここではバイロンの引用です。この時代にも詩は権威を具えた言葉であり、その声を借りることは地質学の地位を向上させる役割を持っていました。30年代以降中産階級が勃興すると、近代詩からの引用は様々な局面で見られるようになり、地質学ではライエルとターナーの成功をうけて大衆向けの地質学書の中で一般化していきます。本の中で詩の引用が見られるのは主に2か所。エピグラフとしての引用は科学を道徳的枠組みの中に位置づける役割を果たし、本や章の最後での引用は驚嘆を表す詩句により読者の同調を誘います。引用、といえど、詩句はもともとの文脈から切り離されたりしばしば改変されたりして、一定の光景や感情を思い起こさせる効果に特化させられています。このようにして詩は、事実と虚構をつなぐ魔法の扉として機能したのです。