反射概念の形成―デカルト的生理学の淵源 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: ジョルジュカンギレム,金森修
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1988/12
- メディア: 単行本
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- カンギレム・G (1977) [1988] 『反射概念の形成』(金森修訳 法政大学出版局)
- 序説
- 第一章 デカルト以前の筋肉運動をめぐる問題状況
- 第二章 不随意運動を巡るデカルトの議論
- 第三章 トマス・ウィリスによる反射運動概念の形成
- 第四章 炎と燃える魂
- 第五章 無頭の動物と有機体の交感
- 第六章 ウンツェルとプロハスカ ←いまここ
- 第七章 十九・二十世紀における反射概念の沿革の歴史
- 結論
- ハレ大学のウンツェルは、ライプニッツ=ヴォルフ哲学に大きな影響をうけた著述家であった。彼は動物が機械だと考えたが機械論者ではない。動物は微小な部分もまた機械である有機的機械だからだ。その一方でアニミストとも距離を取り、動物の霊魂が神経を通じて拡張するというホイットの説は退けられている。
- 彼は、脳には到達しない(=魂により感じられないが)運動を引き起こす感覚印象の存在を認める。これによりホイットとは異なって「反射」が使用可能になった。動物には神経節や分岐、脳など「自然な合体点」があり、そこは同時に感覚表象の「反射点」でもある。例えばポリープの最寄の神経節で反射した表象はポリープに動物的法則(物理・力学に還元できない)に従った運動を与え、脳における反射の瞬間には思考が生まれる。
- ここで言っておくと、「生気論者」とはよくイメージされるような頑迷な形而上学者ではない。彼らはふつう観察と経験を重視し、モデルとしてニュートンを出す「ニュートン主義者」なのであり、その「生命原理」は純粋な機械論や魂では生命現象は説明できないという判断の別名なのである。このような生気論者解釈はプロハスカにこそ最も当てはまる。
- プラハ大で解剖の教授であったプロハスカは、論文「神経系の機能に関する注釈」で、神経研究の歴史を振り返り以下の明晰な結論に達した。
- (1)「感覚神経は脳との関係を断たれると感覚を与えない」
- (2)「運動神経は筋肉との関係を断たれると運動をあたえない」
- (3)「しかし、脳から断ち切られた感覚神経と、筋肉に組み込まれた運動神経とは、「共通感覚」内での互いの結合によって印象を運動に変えることができる」
- なお「神経力」(精気)は分割可能で、切断された有機体内に残ると考えた。これは、「共通感覚」を構成するのは延髄や脊髄であることを意味する。さらに、自動運動は意識的であったりなかったりする点が指摘された。
- 結局、神経には「共通感覚」を構成する部分があり、そこに流れ込んだ感覚印象は一定の法則に従って運動神経に反射する。このことにより自動運動が起こる。しかし脳ある動物の場合、とくに人間には不滅の魂が与えられ、独立の装置を用いて随意運動を行う。この見解はデカルトに似ているが、プロハスカにとって脳は神経の活動に本質的な部分ではもはやない。
- なおルガロワは、哺乳類の脳の切断面を徐々に変えることで、脊髄と神経が同じ構造を持たないことを明らかにし、脊髄の機能に関するホイットの描写やプロハスカの着想を確認した。
【小括】
- アリストテレスやガレノスは、心臓や脳に全運動の単一原理が宿るとした。生命はまとまりをもつ以上、その中で運動の調整装置が分割・分散しているという考え方は困難なものだった。結局、こうした見方が花開いたのは生気論的発想の上だった。また感覚運動中枢の脱中心化は、「感じられない感覚印象」という心理学的問題をももたらしたていた。
- 我々は以上の研究によって、1800年における反射概念の総括的定義を次のように下すことができる。
- 反射運動(ウィリス)とは、先行する感覚に直接惹起され(ウィリス)、物理法則に従い(ウィリス・アストリュック・ウンツェル・プロハスカ)、随伴的意識を伴ったり伴わなかったりしつつ(プロハスカ)、脊髄で起こる(ホイット・プロハスカ・ルガロワ)、神経内での感覚印象の運動性印象への(ホイット・ウンツェル・プロハスカ)、反射(ウィリス・アストリュック・ウンツェル・プロハスカ)により規定される運動である。