えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

知的勇気 #とは Baehr (2011)

The Inquiring Mind: On Intellectual Virtues and Virtue Epistemology

The Inquiring Mind: On Intellectual Virtues and Virtue Epistemology

  • Baehr, J. (2011) The Inquiring Mind (Oxford University Press)

Ch.2 The Intellectual Virtues
Ch.4 Virtue and Character in Reliabilism
Ch.8 Open-mindedness
Ch.9 Intellectual Courage ←いまここ

9.1 知的勇気 vs 道徳的勇気

  • 知的勇気と道徳的勇気を分けるものは何か?
    • 勇気の「究極的目的」にかかわる?
      • 知的勇気は知的目的/道徳的勇気は道徳的目的
  • しかし、知識などに対する関心が究極的でない場合でも人は知的に勇敢でありうる
    • 例:自分自身の幸福の危機にありながらも独裁政権の人権侵害について調査する記者。ただし、究極目的はピュリッツァー賞にある。
    • 「この記者は知的に「有徳」とは言い難い(人格的価値説による)が、知的に勇気がある」と考えるのが尤もらしい
  • そこで、「究極的」関心ではなく、「直近の」関心が知的目的であることをもって、ほかの種類の勇気と知的勇気を区別することができる。

9.2 例

〔省略〕

9.3 知的勇気の「文脈」

  • 知的勇気の日常的な例からは以下の二つの特徴が示唆される。

(1)知的善の追求
(2)知的善の追求が自分自身に対する(可能的)害を及ぼすという事実

  • (2)からより詳細に検討していく
  • 知的勇気には「怖れ」が必要だという伝統的見解がある。
    • しかし、長年の戦いによって権力者に対する恐れを感じなくなっても真理を手に入れ伝えるために活動する人は、やはり知的に勇気があると言えるだろう。
    • (応答a)かつてはその状況で恐れを感じていた、ということが必要
    • (応答b)人は「一般的には」その状況で恐れを感じる、ということが必要
      • しかしこれらの提案はうまくいっていないと思われる。
  • (2)に関しては、恐れが必要というよりも、問題の活動が危険・害であるという「信念/判断」の方が重要なのではないか
    • 権力を恐れない(あるいは恐れなくなった)人であっても、自分の活動は危険であると信じ、そのような思いにもかかわらずそれを行い続けているのであれば、その人物は知的に勇気あると言えるだろう。
    • また逆に、かつては恐れを感じていたとか、普通の人なら恐れるといった場面であっても、本人がその状況が危険であることを忘れてふるまっているならば、その人が知的に勇気あるとは言い難い。
  • なおここでいう「害」とは、精神・身体的に傷つくという積極的意味でも、何らかの善を失うという消極的意味でもありうる。

→(2*)知的善の追求は自分自身に対する(可能的)害を及ぼすように思われるという事実

9.4 知的勇気の「実質」

  • では(2*)のような条件において、知的に勇気ある人はその性格に従ってどのようなことをするだろうか?((1)の検討)
  • 注意深さが注意、知的忍耐強さが我慢、にかかわっているように、特定の活動において発揮される徳がある。
    • これに比して、知的勇気は「開かれた」徳であり、様々な活動の中で発揮される。
    • 心の広さと同様に、他の知的徳の発揮を可能にしたり維持したりする「促進的徳」の役割
  • とはいえ、知的勇気が影響する活動の種類を特定することはできる

(I)探究(何らかの事柄に関する審理に到達するために行われる一連の行為)

  • 知的に勇気ある人は、知的に価値ある探求に従事する
  • 重要なのは、常識に反して、知的勇気は探求を「中断」させることもあるということ
    • 知的に勇気ある人は、探求がどん詰まりになっていると判断した場合には、周囲からの尊敬や資金援助の可能性を犠牲にしてでも探求を中断するだろう。

(II)信念形成

  • 知的に勇気ある人は、知的に言って信用できる・正当化されていると判断した信念を、それを受け入れることが害につながる可能性があるという事実があっても、受け入れるだろう。
    • 逆に、一定の判断を保留したり、性急な結論から身を遠ざけたりもするだろう。
  • しかし、徳の発揮は行為者性を含むものだが、信念は意志でどうにかなるようなものではないのではないか?
    • これは重要な挑戦で、詳しく扱うことはできない。しかし知的徳は少なくとも以下の二種類の方法で信念に影響しうると考えられる。

【a:間接的影響】

  • 特定の理由に重きを置き、着目し、その真価を理解する、といった活動は直接的に勇気の影響を受け、その「結果」として信念が生じてくる

【b:直接的影響】
(i)信念受容

  • 信じるということは、命題を「受け入れる」ということであるように思われる。ここには行為者性の働く余地がある。
  • 新しく手に入った「¬p」を支持する理由に基づいて。私は¬pであると「肯定」・「判断」・「結論」するのである

(ii)信念保持

  • 命題の受容が非意志的であっても、信念の「保持」はかなりの部分意志的でありうる。
  • 例えば、共同体から疎外されるというリスクの上で、¬pと信じ続けるには、問題の命題を意志の力で受け入れうづけるということが必要となってくるだろう。

(iii)判断の保留

  • 判断保留も意志の影響をうけうる。
  • ¬pという証拠にもかかわらずpと信じ続けたいという誘惑にかられた時、反省を経たうえで¬pを信じることに決めない場合でも、pに関して判断を保留するというばあいがある。これは意志の問題であると共に、一つの知的勇気の表れだろう。

【さらなるポイント:知識の伝達】

  • 知識を伝達するという場面においても知的徳は発揮されるだろう。〔そして伝達は意志の問題である〕
  • 知的勇気には「自分自身の幸福を害すると思われること」が必要ではある。しかし、「自分自身の知的善の取り分を増やす」という意味で「自己中心的」なものであるとは限らない。他人の知的幸福を尊重することから知的勇気を発揮することもできる。

9.5 知的勇気:定義

  • ここまでの議論からは、知的勇気は認識的善を目指した活動を「さらに押し進める」のみならず、一定の活動や状態に「留まり続ける」という点にもかかわることが分かる。そこで、

(IC)知的勇気とは、そうすることが自分の幸福にとっての脅威を含むと思われるという事実にもかかわらず、認識的善を狙った一連の行為や状態に留まり、そしてそれを貫き通す傾向性、である。

  • 注意点
    • (1)ICは、知的「徳」としての知的勇気の所有に必要な条件をとらえるものではない。
      • 6章で見たような知的善への動機付けが無くても、ICは満たせる
      • むしろICは、知的勇気を他の徳から区別するような、それ特有の心のあり方を捉えることを狙っている。
    • (2)「傾向性」とは、行為者の側での意志(willingness)と(ある程度の)能力を含むものとして理解されたい(前章参照)
    • (3)「一連の行為」や「状態」は、これまで見てきた様々なものを含むように理解されたい
    • (4)この「傾向性」は、心のタフさ・動かされなさ、に基盤を持つ。
      • そしてこの「動かされなさ」はさらに、特定の動機の構造に依って説明できるだろう。
      • 話を有徳な事例に限れば、知的に有徳な人は恐れに動かされずに真理への愛から知的に有望な行為を行う。これは、その他の様々な動機に直面しても認識敵前への欲求が優勢であるということである。

9.6 挑戦的事例

9.6.1 悪い動機の勇気

  • 道徳的な意味において、「勇気ある悪党」はつぎの3つのどこに位置するかがしばしば問題になってきた
    • 【保守派】悪党は勇気を持っていない
    • 【〔中道〕】悪党は勇気を持つが、それは道徳的徳ではない
    • 【リベラル派】悪党は勇気を持ち、それは道徳的徳である
  • 明らかに、同じ問題が知的勇気に関しても生じる。
    • 上で見たピュリッツァー賞を狙う記者とかが典型例
    • 既にこの人物は【中道】に位置していると主張した。ここでは、保守派とリベラル派に反対する考察をいくつかおいておきたい。

【保守派:記者は知的勇気を持っていない】

  • 一見尤もらしいが、ちょっと反省してみれば厳しすぎることがわかる
  • 記者の傾向性は、十分安定的で本人の心の中で十分統合され根付いているかもしれない。そういう人物が、何らかの意味で勇気を持っていることを否定するのはおかしい

【リベラル派:記者は知的に有徳である】

  • リベラル派は勇気の存在を認める点では前進しており、しかも信頼性を重視するような外在的な徳の構想の元ではこの見解で問題ないかもしれない
  • しかし、内在的構想の元では問題が現れてくる。
    • 例:この記者が後に知的に改心して、真理を純粋に愛するようになったとする。
    • もしリベラル派が正しいなら、この回心によって記者の知的勇気の質は高まらないということになる。これはありそうにない主張である。
    • 知的徳に関する内在的構想のもとでは、知的徳と「人としての価値」に何らかの重要な結びつきが必要。しかしリベラル派のもとでこの繋がりに意味を持たせるのは難しい。
      • 例えば6章で見たように、「人としての価値」をその人が愛するものの関数とする場合、名誉をもとめる記者は有徳ではないといわねばならない。
    • また、知的に悪い目標に究極に動機付けられている人を考えよ
      • 例:独裁体制の手先となり、人々を欺くためにその手段になりうる情報を集めている記者
      • この情報収集は知的勇気が必要なものであろう(政府に敵意を持つ人の情報を集めなければならないかも?)が、内在的構想の元ではこの人が有徳な人物であるとは言えまい。
  • ということで、【中道】こそが保守とリベラルの両方の利点を具えつつ欠点を排除するよい立場だと思われる。
9.6.2 勇気がイージーすぎる?
  • 勇気が、どれくらい要求水準の高いものなのかという点はしばしば問題になってきた。ここでは、知的勇気はそう要求水準の高いものではないと論じる。特に、「知的徳としての」勇気の発揮は、ある種の「不合理性」とも両立する。
  • 例:極度のコミュ障だが、自分が受けたい大学の初年次教育にコミュニケーションが必要であるがゆえに、対人恐怖をおして大学に入学する人
    • ここで、人とコミュニケーションすると魂が四散するというこの人の信念は誤りなので、この対人恐怖は不合理だとしよう。この場合でも、この人が知的勇気を発揮していることは明らかだと思われる。問題は、次のような原理の是非にある。

【〔合理性1〕】
ある人Sが、自分の幸福への脅威があると思われているにもかかわらず認識的善Gを追求することが知的に有徳であるのは、その思われが合理的あるいは理にかなっている場合に限る

  • この原理は、しかし要求水準が高すぎるだろう。恐れが不合理であるとしても、この人の行いは相変わらず賞賛されうると思われる。
    • すると、知的勇気が徳かどうかというのは、(それが不合理であれ)恐れの知覚にどう「対応するか」というところに依存しているように思われる。
  • 一方、「大学に入ることが認識的善に繋がる」という信念が間違っているのだとしよう。この場合には、この人は何らかの意味で知的勇気を発揮して入るものの、この不合理性によってこの人は知的に有徳ではなくなっていると思われる。
  • 従って、必要な原理は以下である

【〔合理性2〕】
ある人Sが、自分の幸福への脅威があると思われているにもかかわらず認識的善Gを追求することが知的に有徳であるのは、そのような追求を行うことがGの確保につながると考えることがSにとって理にかなっている場合に限られる。

  • 従って、知的勇気には特定の合理的視点が含まれているのだが、それは脅威の判断に関わるものではなく、自分の行為が認識的善に導くという判断の方に関わっている。

9.7 いつ知的に勇敢であるべきか?

  • この問いに少し詳しく取り組みたい。
    • まず上の原理【合理性2】が、必要十分条件の定式化だとしよう。
    • すると反例がたくさん出てくる。
      • 手に入るGが小さすぎる場合
      • 手に入るGと害Nの大きさが釣り合わない場合(死ぬとか)
      • 他のより価値ある認識的善の追求ができなくなる場合
    • 教訓:問題となる認識的善と害の相対的な規範的重要性がポイント
      • そうすると、ここではフロネーシスが関わってくる
  • ある性格特性を発揮すべきなのは、賢明な人がそうするだろう時
  • とはいえ、賢明な人もなんらかの規範的考慮事項・要因に基づいて選択を行うわけであり、私たちもこの要因がなんなのかを知りたい。
  • 詳しくは展開できないが、問題の善や害がどのくらいの「可能性」・「見込み」で実現すると思われるか、が一つの考慮事項だと思われる。例えば・・・
善の大きさ 善の見込み 害の大きさ 害の見込み 発揮……
A すべき
B 微妙
C 微妙
D しないべき
  • 従って次のようなことが言えそうだ。
    • 知的勇気に特徴的な活動を行うことが知的に有徳であるということは、少なくとも以下のものの関数である。
      • (1)問題となる認識的善とありうる害の相対的な規範的重さ・重要性
      • (2)それらが実現すると思われる見込み
  • 最後にもう一点:可能的な害の「種類」にはどんなものがあるか?
    • ここまでは、害を認識的なものに限ってこなかった。
      • しかし、この限定があるかどうかは重要な含意をもたらす。
  • 例えば、問題の害が認識的害でないならば、(B)や(D)で知的勇気を発揮するのは実際有徳なのかもしれない。
    • 知的勇気の発揮が「知的」に有徳かどうかに、知的ではない要因が関わると考えるのは妙かもしれない。
      • しかしながら、極めて僅かな知識を得るためにエクストリームな苦痛に身をさらす人を考えた時、知的徳が「賞賛されるものである」限りは、やはりこのような人は知的に有徳ではない、とベアとしては考えたい。このような人のどこに賞賛すべき点があるかわからないからだ。
    • というわけで、ここに何か奇妙なことが残っているのは確かなのだが、この点に関してはオープンにしておくことにする。