- 作者: ジェローム・B.シュナイウィンド,田中秀夫,逸見修二
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2011/11/25
- メディア: 単行本
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- シュナイウィンド・J (1998) [2011] 『自律の創成』 (田中秀夫監訳 法政大学出版局)
第一部 近代自然法の興亡
第二部 完全性と合理性
- 第9章 近代完全論の諸起源
- 第10章 神への道ーーI ケンブリッジ・プラトニスト ←いまここ
- トマジウスは人間の神に対する従属を否定した(→8章参照)が、この考え方はすでにケンブリッジ・プラトニストが表明していた。彼らは宗教改革の再考に取り組み、神を正しく知ることと愛の実践による卓越を重要視した。
1 ウィチカット−−宗教の核としての道徳
- ケンブリッジ・プラトニズムの創始者であるウィチカットは、宗教の要となるものは道徳であり、聖書にしるされた神の意志である制度は手段であるにすぎない主張した。そして道徳の要求は理性によって直接知られうる(主知主義)。理性は自意識の中心であるから、不道徳な人というのは自分自身と対立しているのであり、この自己矛盾の状態こそ「地獄」、自己矛盾なく謙虚・心正しさ、神への敬意などに満ちた状態が「天国」である。
- 道徳的知識は手に入りやすい。足りないのはそれに従う意志であり、節制や慈善・神への服従などの徳の発揮により、〔実践〕理性を向上させることができる。このように有徳な行為を導く自己統治は、「為政者の法の順守」とは別問題であり、ここにはプロテスタントの二王国説を乗り越える法と道徳の間の新しい関係が見える。
2 ジョン・スミス――完全性、愛と法
- スミスは、高潔・正義・柔和などが全ての行為に行渡るとき、「人間は神のようになれる」とした(マタイ5.48)。道徳的知識は生来のもの(自然法)で手に入りやすいから、必要なのは知識ではなく努力であり、完成である。
- 神の目的である善を命じる自然法は、恐怖によって外的遵守を求めるホッブズ流の法ではない。神の愛に満ちた心は、それ従うことが卓越している(自然法に従って行われることは善である)が故に法に従うのである。懲罰すらも抑止的・矯正的でなければならず応報はありえない。しかし、ではなぜ外的に発布され罰と結びつけられる実定法が存在するのか。スミスは、こうした法は心正しくない人のためにあるのだと考えた。
- ここでも信仰と道徳は同一視され、二王国説は退けられている。しかし、法に関する彼の見解は、「少数者のためには愛の倫理、多数者のためには法の倫理」という緊張を孕んでいた。
3 モア――愛の公理
- モアはケンブリッジ・プラトニストの中で唯一体系的な著作『倫理学綱要』(1666)を出版した。ここでは「聞いたとたんに同意できる」「道徳の公理すなわちノエマ」が23提示されている。ノエマは様々な徳の基礎となる。
- 私たちは、内なる神性であり最高善に向かう愛と洞察である「向上能力」によって善を行い、善そのものである神に近づくが、この能力を拒む人にもノエマは道徳を強制させる。さらにノエマは、情念を制御する際の理性的原理としてもはたらく。
- モアは様々なノエマの間に緊張関係があるとは考えなかった。それは、「向上能力」が基準となってすべての徳は生じると考えたからだ。従ってモアは帰結主義的態度を示しており、自然法は善を生み出すという観点から説明されるべきだと考える。愛こそが法の源泉なのであり、それに従うことで私たちは神性に近づくのである。
4 カドワース 倫理の形而上学
- カドワースも、意志・愛・自己改善によって私たちは神へと近づくと考えた。『宇宙の真の知的体系』(1678)はそれを可能にする形而上学を詳述し、唯物論を攻撃する。デカルトによれば物質は思考しないが、世界は知的に設計されているように見える。動物の繁殖や蜂の蜜づくりなどの「形成的自然」が、神の下級代理人として秩序を維持している。
- また唯物論の基礎となる経験主義的認識論に対して、本質や必然性、不変の真理に関する思考を含む「世界に先んじた」神の心がなくてはならないという議論がなされる。そして、我々が神の心の内にある観念や真理に直に触れることができないなら、コミュニケーションは不可能になる。私たちが神に近づきつつ学ぶのも、神の心の内にある道徳的観念なのだ(主知主義)。神は本性的に善なものを悪にはできないが、神の英知が神の意志を拘束するのは神が自己矛盾しているということではない。
- このプラトン主義的な意味理論をホッブズは批判していた〔推論で得られたのではない道徳観念は本人の情念の記述にすぎない〕。しかしホッブズのような主意主義者も道徳的用語を有意味なもの考える限りで神の心にある観念を心に抱いているはずで、明晰に考えれば「善である」と「命じられている」は違うとわかるはずだ。神の心を知るには愛が必要であってみれば、「ホッブズ主義者や無神論者には愛がない」という非難は中傷ではなかった。
- カドワースの主意主義の論駁は、形成的自然の説や本質や意味に関する一般的主張に依拠しており、帰結主義に依拠するものとは異なる。帰結主義をとると、応報は自然に存在するという感覚に反し、神は応報の適切な実現に失敗したことになってしまうため、カドワースはこの立場はとれなかった。
- 〔帰結主義をとらない〕カドワースは、正義と善という二つの道徳的属性を神に帰属したかったように見える。しかし天罰は恩恵のようには善をもたらさないので、愛と正義は両立しないかもしれない。このことは調和的な宇宙像に合わないだけでなく、正義と復讐の旧約の神を重視するピューリタンに与することになりかねない。結局正義と善のどちらが上位なのかという点にカドワースは口をつぐんだ。
5 ケンブリッジ・プラニズムと自由意志
- スミスは自由と理性を結び付け、神でも人間でも、最善のことを意志し行うことが自由であるとした。宇宙の善に関する神の秩序によって全面的に動かされることが人間にとって完全な自由である。
- モアによると、無知や外的強制に由来しない自主的行為のなかで、善を理解しつつもそれをするかどうか選べる場合の行為が自由である。すると、「邪悪なことを事実上選べない」「真に正直な人」は自由ではなくなる。またモアは「悪から逃れる力」が自由意志だともする。私たちは悪に抵抗するために自由なのである。
- モアは罪が無知から生じると考えたが、無知は非自主的行為を生み出すのだった。ところが万人が善を知りうるわけではなく、しかも洞察力は天与の物なので、その欠如を非難(または所有を賞賛)すべきではない〔ため、悪は非難できないことになる。〕謎である。
- 結局、一方で愛にあふれ邪悪な事を選べない人は自由ではなく賞賛にも値しないということになる。他方で不完全な人々には、非難されそしておそらく法に支配されるために自由が必要だという事になる(→2節末尾)。何かがおかしい。
- 応報を認めるカドワースには堅固な自由意志が必要になる。知性に従うことによる意志の盲目的な選択を避けるため、カドワースは心を意志の機能と判断の機能に分けることをやめ、知ったり選んだりするのは「総体としての個体」であるとした。そして、個体の魂の様々な活動を統治する原理、すなわちその「個体自身」の力であるのが「ヘゲモニコン」である。ヘゲモニコンは形成的自然であり、神に従いつつもそれとは独立して秩序を生み出す。
- しかしながら、この自己統治の力を発揮したりしなかったりするよう私たちを導くのは何なのか。自由な選択は善による決定でも偶然でもないとしつつ、カドワースはそれに代わる考えを出さなかった。