The Inquiring Mind: On Intellectual Virtues and Virtue Epistemology
- 作者: Jason Baehr
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
- 発売日: 2011/09/05
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- Baehr, J. (2011) The Inquiring Mind (Oxford University Press)
Ch.2 The Intellectual Virtues
Ch.4 Virtue and Character in Reliabilism
Ch.8 Open-mindedness ←いまここ
Ch.9 Intellectual Courage
- 心の広さは知的徳の典型例として扱われることも多い。
- 「心が広い」と表現しうる特性には、選択肢の間でころころ意見を変えしまう悪徳も含まれるが……
- しかし、「心の広さ」という知的徳は確かに存在しており、この章ではその重要な特徴を明らかにしたい
8.1 心の広さに関するひとまずの特徴付け
- 心の広さというのは何と言っても、ある人の信念と、別の見解・議論・証拠の対立場面と関わるだろう
【A:反証を得た科学者】
ある大発見をしたかに思えたが、反対する実験証拠が出てしまったとき、その証拠を真剣に受け止めることにした科学者(Snow 1934)
この例から、次のようなモデルが考えられる。
【対立モデル】
心の広さ = 相反する信念・議論・証拠を公正で偏らずに聞き入れるために、特定の問題に関する自分の信念上のコミットメントを一時的に差し控えようという意思あるいは能力
- これは一見もっともらしいが、一般的ではない。なぜなら、問題となる事柄に関して「中立的」な人でも心の広さを発揮することができるからだ。
【B:偏らない判定者】
裁判において、双方の冒頭陳述を聞くにあたり誠実で偏らない裁判長。この事件に関しては事前の見解はなく、裁判の結果には一切の利害関係がないとする。
- ここでは裁判長の見解とこれから評価しようという議論に対立はない。そこで、
【〔裁判長モデル〕】
心の広さは それぞれの立場が導く議論をおいかけ、即断・未熟な判断をさけるために、ある問題について双方の見解を聞き入れようという意思 において顕在化する
- 両者の違いは、対応する悪徳を考えるとさらに明らかになる。
- Aには、心の狭さや独断主義、偏見などが関連する悪徳
- 一方、Bの即断してしまう裁判長はべつに偏見に陥っている訳ではないが、知的な性急さや忍耐のなさ、怠惰さなどの悪徳がある
- しかし、この両例には共通点もある
- (1)何らかの種類の知的対立がある
- (2)対立している項に関する合理的な評価をふくむ
【A&B:判定モデル】
心の広さは、本質的に、知的な抗争の一つ以上の側面を公平かつ偏らない形で評価する傾向性
- ところが、対立も評価も含まない「心の広さ」の例がある。
【C:相対性理論を学ぶ生徒】
特殊相対性理論をマスターした生徒が、さらに日常的世界理解からかけ離れた一般相対性理論に取り組む
-
- ここでは評価ではなく理解が問題となる。
【D:難しい問題に取り組む探偵】
一見ばらばらな証拠から一貫した説明を想定する探偵
-
- ここでは評価ではなく創造的な思考が問題となる。同様の活動は科学などでも重要。
8.2 心の広さ:統一的説明
8.2.1 心の広さの概念的中核
- これらの事例を「心の広いもの」たらしめている共通点……デフォルトあるいは特権的な認知的視点から「離れる」こと
- 【A】自分のもとのコミットメントから、【C】世界に関する日常的理解から、【D】〔通常の視点から〕
- 【B】はこの特徴を持たないように見える。しかし少なくとも3点で「離れること」が関連している。
(i)これまで考慮したことのない認知的立場に立つことが必要となる
(ii)様々な立場の間を行き来する必要がある
(iii)即断しようという誘惑にかられた時それに抗することは心の広さの表れである。
-
- (iii)は、別の認知的視点を積極的にとることではなく、消極的に、心を閉じ「ない」ことが心の広さになる。というのは、主体はここで標準となっている公平な観点を採用するように〔わざわざ〕心を向けているからだ。【A】【C】【D】のデフォルトの見解は〔自然に〕受け入れられているにすぎない。
- もう一点、この「離れること」は、そうしようという直接の動機に支えられていなければならない。たとえば、相手の注意を引こうという動機から公平な態度を取っている場合は真に心が広いとは思われない。相手の見解を「真剣にうけとって」いないからだ。
8.2.2 心の広さの定義
(OM)心の広い人は、その性格に従い、(d)異なる認知的立場のメリットを(c)真剣に受け取るために(b)標準的な認知的視点を超越する(a)意思を持ち(一定の限界内で)そのようにできる。
- (a)はまだ考慮してない部分
- 意志だけで定義するのはうまくいかない
- 「離れる」と意志し、できると信じているが、洗脳によりそうできない場合……心が広いとは言い難い
- 「離れる」と意志し、できると信じているが、情報が隠されるなどの外的要因によりそうできないばあい……心が広いと言える
- →能力を入れ、それは「内的」な観点で理解される必要がある。
- 意志だけで定義するのはうまくいかない
- 補足的論点1
- 本人にとって何でもない問題に関しては、現在の見解と反対する見解を聞き入れることは別に徳の発揮ではない。
- (OM)で描かれるような活動は「知的挑戦」という文脈内で起こらなければいけないなどの但し書きを付ける必要があるだろう。
- 補足的論点2
- 【A】【B】のように合理的評価がかかわる場合には、その評価に従って自分の信念がちゃんと改定されなければいけないという但し書きを付ける必要があるだろう
8.3 心の広さと他の認知的卓越性
- 心の広さは他の認知的卓越性や能力と深い関係を持つが、それらに還元されるものではない
- 例:心の広さがなければ「知的共感」(相手の視点で考える意思と能力)を持つことはできないだろう。しかし、〔標準的視点を〕「離れること」と〔別の視点を〕「採ること」は別の活動である。
- むしろ心の広さは、他の認知的卓越性の効果的発揮を「促進」する役割をもつ
- 別の視点を「真剣に」「採る」という「心の広さ」に特有の動機条件の中には、「公平、誠実、客観的」な傾聴や相手の立場の「把握」といった徳・能力が含みこまれている。
- また他の卓越性が発揮されるような活動(例えば、相手との対話)を「生じさせ」たり「持続させ」るのに「心の広さ」が役割を持つこともある
8.4 いつ心広くあるべきか
- 「いつ心広くあるべきなのか」という問いは難しい。ここではひとまず次の問いに取り組みたい。
【問】心の広さに特徴的だとされた認知的な「離れること」に関与するのが「知的に」有徳であるのは、どのような条件のもとでか
- この問いへは、そもそも知的徳の一般的目標である認識的善の観点から応えられるはず。認識的善を真理・真なる信念にかぎれば……
(R1)状況CにおいてSが心の広さに特徴的な活動に関与するのが知的に有徳なのは、Cにおけるそのような活動への関与が真理への到達に役立つまさにその場合である。
- しかしこれはうまくない。なぜなら
- 強すぎる:悪霊に欺かれた人が心広くなくなる
- 弱すぎる:真理につながる活動をしているが、その活動が真理につながると考える理由を持っていない人、にも適用されてしまう
(R2)状況CにおいてSが心の広さに特徴的な活動に関与するのが知的に有徳なのは、Cにおけるそのような活動への関与が真理への到達に役立つかもしれないとSが信じるのが合理的であるまさにその場合である。
- こうすると、「圧倒的に大きな証拠がある場合には競合相手の意見を聞くことはそう心広いことではない」という点をもうまく説明できる。
- しかし、「役立つ「かもしれない」」と思う程度で心の広さと認めてしまうと、心の広さの事例が多くなりすぎてしまうのではないだろうか? とはいえ、相手の見解にわずかでも可能性と思っているのにそれを無視することは心の広さを欠くので、弱い見解を取っておくことは重要だ。
- そこで、必要条件にするという形で主張を弱めることができる。
(R3)状況CにおいてSが心の広さに特徴的な活動に関与するのが知的に有徳なのは、Cにおけるそのような活動への関与が真理への到達に役立つだろうとSが信じるのが合理的である場合にかぎる
- 最後に、「合理的」というのを明確化する必要がある。この場合の合理性は、以下のものを考慮した上で主体が持っている根拠の関数だと考えることができるだろう。
(1)Pそのもの
(2)Pが属する命題領域にかんするSの信頼性
(3)Pに反する議論のソースの信頼性
-
- ここでも、圧倒的に大きな証拠がある場合に相手の意見を聞くことはそんなに心広いことではないということがわかる。
- 「いつ心広くあるべきか」に関連する要因を指摘するにとどまったが、一定の光を与えることはできただろう。