えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

デカルトにおける形而上学の不在とクラウベルクの第一哲学 Marion (1999)

On Descartes' Metaphysical Prism: The Constitution and the Limits of Onto-Theo-Logy in Cartesian Thought

On Descartes' Metaphysical Prism: The Constitution and the Limits of Onto-Theo-Logy in Cartesian Thought

  • Jean-Luc Marion,Jeffrey L. Kosky (tr) (1999) On Descartes' Metaphysical Prism: The Constitution and the Limits of Onto-Theo-Logy in Cartesian Thought (Univ of Chicago Pr)

pp.81-88

 本書のここまでの部分でマリオンは、デカルトは「存在としとの存在」の学ではなく表象されるものとしての存在の学を打ち立てようとしているからデカルトに形而上学は無いんやという議論をおこなってきました。一転ここからは、2つの理由からやっぱり形而上学はあるんじゃないかという話に移ります。ここでとりあげる一つ目の理由は、クラウベルクからヴォルフに至る「ontologia」は、存在の表象可能性に依拠してこそ「存在としての存在」に到達できた、という点です。
  クラウベルクの『オントソフィア』(1647)は、ensに三つの意味を認めます。
(1)思惟可能なもの ens cogitabile
(2)ほんとにあるもの aliquid ⇔ nihil
(3)実体
そして(3)が一番力を持っているとしつつも、「思考可能なものから出発する普遍的な学」を目指すとし(1)を強調していきます。「存在者とは、それがどんなものであれどのようなありかたをしているのであれ、とにかく、考えられるもの、言葉にすることができるもののことである」。ontologiaはだからそもそもの始めから、存在を思考作用との関係で考察するものなのです。同じくクラウベルクからの引用

「第一哲学」、それは、扱う対象の普遍性に由来する名前ではない。そうではなくて、真剣に哲学するものなら誰でもそこから出発しなくてはいけないからこそ、第一哲学なのだ。それはつまり、自分の精神に関する知識と神についての知識等から出発するということであり、このような第一哲学は、デカルトの第六省察のなかに含まれていたものだ。

ここで「第一」とは知識の順序の話で、存在の順序の話ではありません。
  デカルトにおける形而上学の不在は、逆説的にも存在としての存在の問いに寄与しており、その意味でデカルトの思想を形而上学に属するものと考えられるのではないか、とマリオンは論じています。