えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

徳倫理のナチュラリズム Hursthouse (1999)

On Virtue Ethics

On Virtue Ethics

  • Hursthouse, R. (1999) On Virtue Ethics (Oxford University Press)

Ch.3 Irresolvable and Tragic Dilemmas
Ch.6 The Virtuous Agent's Reason for Action
Ch.9 Naturalism ←いまここ

  • プラトンの要請の2個目
    • 「徳はその所有者を人間として良いものにする = 人間本性に関する考察に倫理を基礎付ける試み」
  • ジレンマ:中立的な立場から自然科学を使うとたいした成果はえられないが、既存の道徳観の中で語るのは倫理的信念の正当化ではなく表出に過ぎない (see also Watson, 1990:「ギャングであることが人間としての良さと不両立になるような客観的理論なんてあるのか?」)。
  • 以下では、徳に関する信念を正当化しようとするナチュラリズムのプロジェクトがまともな候補者であり得ることを論じていく。
  • ここでいう「ナチュラリズム」とは何でないか:前章から3つのポイント
    • 1.アリストレス的ナチュラリズムは「科学的」でも「基礎付け的」でもなく、「中立的な立場」から帰結を引き出すのではない。大きく異なる倫理観の持ち主を説得することは期待できない(ノイラートの船;McDowell)。
    • 2.動機付け理由を与えるものではない。
    • 3.標準的な徳が所有者を益することを示すもののではない。
  • じゃあ何なのか? ……フットを導きにする。
    • フットのアイデア:「良い」は「小さい」などと同じく「帰属的形容詞」であ〔り、「赤い」などの「叙述的形容詞」ではない〕。つまり、何らかの規準である対象を「良い」と言う時には、その対象を記述する名詞を選ばなくてはならない。これは「良い人間」にもあてはまる。
    • 〔「赤い」はその述定先が何であるかとは独立だが、特定のFが「小さい」あるいは「良い」かどうかは、「F」が何なのかに依存する。ある本は哲学書としては「悪い」が睡眠導入剤として「良い」ことがある(NG邦訳p. 13-14)。一方、赤い哲学書は赤い睡眠導入剤でもある〕。
  • フットは、評価語を植物や動物との関係で考察し、次に人間へ進むことが重要だと考えた。ここでもこのアイデアを借り受ける。
    • 「ただ乗りするオオカミに悪いところがあるのと同じように、慈愛や正義を欠いた人間にも悪いところがある」。
    • 「ひなの声を聞き分けられないカモメの聴覚に悪いところがあるということを〔……〕事実問題でないと考える人はいないと思う。同様に、人間の視力・聴力・記憶力などにも、我々自身の生の形に基づいた客観的で事実的な評価がある。ならば、人間の評価が人間本性や種に関する事実によって規定されるという考えをなぜそんなに恐れるのか。」

植物と動物を評価する

  • 個体をその自然種の一員として評価するとはどういうことか。
【植物の場合】
  • 評価される側面
    • (1)部分(根、葉……)
    • (2)働き/反応(成長する、水を摂取する、種子を作る……)
  • 評価が関連する目的
    • (i)その種に特徴的なあり方を通じての生存
    • (ii)種の存続
【動物の場合】
  • 植物の2の側面+2の目的に加えて……
  • 評価される側面
    • (3)行為
    • (4)情動・欲求
  • 評価が関連する目的
    • (iii)苦痛からの特徴的な自由/特徴的な快
  • 「特徴的」……苦痛を感じるのは重要な生存メカニズムの一部でもあるため条件が必要
    • (iv)社会集団が良く機能を果たすこと(社会的動物の場合)
  • この目的に照らすと、メンバーの再認、ボスへの従順などがない個体は欠陥を持っている。
  • 「社会集団の良い機能」= メンバーが(i) - (iii)の点でよく生きることを可能にすること(社会的動物特有の目的の相互関係)
補足
  • 1.植物学、動物学、動物行動学をみれば、これらの評価は客観的かつ科学的である。科学教育番組とか見よう。
  • 2.この評価の真理は、「大部分」の問題であり、不正確さ・非決定性を残す
    • 種名辞はファジーである
    • 総体としての評価は関連する諸側面の評価に複雑にSVする。このため、ある面では良いが別の面では悪く、総体としては決め難い事がある。
  • 3.良いxが全て同一の特徴をもつとは限らない。〔細分化の可能性〕オス/メスやリーダー/非リーダーなど
  • 4.総体としての評価は、あるxをxとして「ふつうは」よく生きていると同定するものである。
    • 完全なxでさえ、環境や運によってよく生きられない場合がある。
    • よいxであるが故によく生きられない事例もありうる(例:特徴的な仕方で痛みを感じられるが故に、一生ものの痛手を負ってしまう)。
  • 5.総体としての評価は、x種の関心や欲求やニーズに部分的に依存する。

我々自身を評価する

  • 以上が正しいなら、人間の倫理的評価にも同様の構造が見られるはずだ。
  • 以下では「健康な」人間に話を限る。
    • 我々の倫理的評価が動植物の評価と異なる点として、それが身体的側面にSVする評価から独立であるというのは明らか。
  • 植物から動物への移行時に付け加えが行われたように、我々の合理性が評価対象のリストにつけ加えるとすると……
  • 評価される側面
    • 〔部分〕 / (単に身体的ではない)反応 /(傾向性からの)行為(※特別な場合) / 欲求・情動 / 理由に従った行為
  • これは寄せ集め的に見えるがそうではない。これらは、まさしく我々の倫理的性格が顕在化するところの諸側面となっているからだ。
    • 良い人間である、徳をもつ、とはこれらの側面に関して立派である(well endowed)こと。
  • 勇気や節制が人間の徳であるということはまだ示せていない。話のもう半分、目的に着目しよう。
    • 我々が倫理的に立派であるのは、我々の性格特性が、社会的動物に割り当てられた4つ目的に資するに従ってのことだと言えるか? それとも、これらの規準では良さに奇妙な特徴付けを与えてしまうか?
    • おそらく前者。たとえば、互いに守りあい戦う時には命を懸けることで、個々の生存や種の保存、社会集団のメンバー間の協調を促進するといったパターン(「勇気」)が、オオカミやクジラの生のもとでも、人生におけるのと同じ役割を果たしていると考えることは尤もらしい。動物に対応物がないかもしれない徳(例えば誠実、正義、忠誠など)も、4つの目的にやはり資するだろう。
  • この考えはそう馴染みのない奇妙なものでもない。
    • ヒューム「徳とは所有者/他者にとって有益/快適な特徴である」
    • 近代の試み「社会の中で生きる必要に応じて、快と苦痛からの幸福を最大化する傾向を持つ行為が正しい行為」
  • 個体の存続と種の保存も、広範な自己犠牲の否定や子供の養育や教育の重要性という形で影響を持つ。
  • しかし倫理的ナチュラリズムにはまだ不明な部分がたくさんあり、成功の見込みは示せていない。以下で幾つか取り上げ、次章でも深い疑念を取り上げる。
  • 【疑念1】良い人間は動物のように「特定の」「特徴的な生」を生きることになり、良い人間のあり方を決定しすぎているのでは?
    • 倫理的ナチュラリズムは性格特性が徳であるための規準を与えるが、正しい/良い行為の規準を(直接)与えるものではない。節制が徳とされても、個別の事例にどう適用するかは場合による。良い人はいつも食べ過ぎないとか言う「法則」が与えられる訳ではない。
    • そもそも良い動物がみんな同じ生き方をするというのは違う(補足3を見よ)。いわんや生活や役割が多様な人間をや。
  • 【疑念2】でも倫理的ナチュラリズムの「良い人」理解によれば、良い人は少なくとも<諸徳の所持と発揮>の点で「同じ人生」をおくるのではないのか?
    • 例外はあるが「yes」。しかしそれは人生の多様性を否定しない。ある徳を凄く発揮するが別の徳はあまり発揮しない/犠牲にするという可能性もある(補足2を見よ)
    • 例外? ……良い人は各々の徳を(少しでも)持つという見解は根強い。確かに、標準的な徳はそれを全く持たないことがすなわち悪徳である。しかしそうではない徳もあるのではないか。例えば、良き親であるという徳は、それを持たない人が親にならないなら、その人が良い人であることと両立するのではないか?
    • 我々の性格特性概念はシャープじゃないので、この問題を決定的に決するのは無理だ。次はどっちも言える。
  • 良い親であることは標準的な徳の発揮の仕方の特殊例にすぎない
  • 家族の外では徳を殆ど発揮しない人は実際いるから、良い親であることは独立の性格特性だ
    • 後者なら、「良い親であること」は、それが欠けていてもその人が良い人でありうる徳の例になる。また「分業」を考えれば、役割-相対的な徳というものが恐らくあり、これもこのタイプの徳の例になる。
  • 【疑念3】「種の保存」が目的の中にあるのはやっぱりおかしい。同性愛者は(少なくともその点で)悪い、欠陥ある人間なのか?
    • 今問題なのは特定の性的志向ではなく性格特性だ。我々には、パートナーのことを考えず快楽を求める人は放埒であるが、より分別ある仕方でそれを求める人は節制があると考えてきた長い伝統がある。
    • ナチュラリズムも「性に関して節制があることは徳だ」と認められるとしよう。しかしそこから、同性愛者がその同性愛に関して倫理的に悪いという結論を出すのには、同性愛者とは何か、あるいは放埒/節制とは何かにかんして実質的な前提をおく必要がある(例:「同性愛者は全て粗野で我がままでふしだらだ」)。具体的にどんなものであれ、それがナチュラリズムから直接出てくることは無い。
    • さらに禁欲的生活を例にとろう。ナチュラリズムがほとんどの標準的な徳を支持するとして、それが禁欲的生活と不両立であるかは自明ではない。ある社会や状況では禁欲的生活を送ることは、愚かで、利己的で、無責任かもしれない。しかし別の状況で、また別の理由から、また別の仕方で、禁欲生活を送ることはよい人間であることなのかもしれない。徳に従った人生は多様な形をとりうる。