えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

解けないジレンマ、悲劇的なジレンマ Hursthouse (1999)

On Virtue Ethics

On Virtue Ethics

  • Hursthouse, R. (1999) On Virtue Ethics (Oxford University Press)

Ch.3 Irresolvable and Tragic Dilemmas ←いまここ
Ch.6 The virtuous agent's Reason for action
Ch.9 Naturalism

・解けないジレンマとは、xとyの間で道徳的選択を行うのだが、一方を他方より優先させる根拠が何も無い場合のことを言う。

そんなものあるのか

・応用倫理の文献は、難しい事例について一つの正解が存在しているにちがいないと仮定している事が多い。この仮定は正当なのか?

行為功利主義の立場に立った場合

・正当である。この立場にとって解けないジレンマが生じるのは、(1)「最大多数」と「最大幸福」の間で協約不可能な2つの選択肢が生じる場合、(2)2人の間で幸福が通約できない場合、(3)2つの選択肢が等しい量の苦痛を生む場合、である。しかし、応用倫理で扱われるような難しい事例がこのいずれかであることは殆どない。

義務論の立場に立った場合

・人が義務論の多元主義に魅かれるのは、解けない衝突の存在が認められるからかと思いきや、意外にもみんなジレンマは解けると考えている。その解き方が、功利主義よりも道徳の複雑さを考慮しているにすぎない。
・なぜなのか。義務論の宗教的前史が原因かも? 全知全能最善の神が、忠実な僕に対して罪と罪の選択をさせるわけないじゃない。
・でも、(1)そもそも忠実な僕でなければ罪と罪の選択には直面するし、(2)どちらも罪ではない2択だが解けないものもある(例:真実を言うか欺くか(噓と違い欺きは場合によっては赦される))。
・神と無関係に義務論を信じる人がもつ仮定への確信も、<どちらも損失の無い善だが、片方を支持する道徳的根拠は無い>ジレンマを考えると揺らぐ(例:娘の誕プレに何をあげるか)。この場合選択肢はどれも等しく望ましく、実践理性には道徳的根拠がなにもない。苦痛に満ちたジレンマの場合だけは必ず何らかの道徳的根拠があると考えるのは奇妙だ。

特定の立場に立たない場合

・解けないジレンマがないとすれば、道徳経験の肌理をねじ曲げることになるだろう。人生がしばしば恐るべきジレンマを提起する事を考えれば、適切な規範理論は我々がそれを解けないという事実を受け止めるべきだろう。

徳倫理における解けないジレンマ

・徳倫理は決定手続きを与えなくてもオッケーなので、解けないジレンマはよくあることとして認める。解けないジレンマは次のような状況である。

2人の真に有徳な行為者が、同じ状況でxかyかという同じ道徳的ジレンマに直面し、性格にしたがって行為したところ、一方はx、他方はyをした。
(この状況を考慮し、正しい行為はa virtuous agentが行うとしたのだった)

・まず、快い解けないジレンマを考えよう。上の説明はプレゼントに何を買うか指針を与えない。また行為の評価としては、両者とも相手が行う事をやりそびれているが、どちらも正しい行為をしているだろう。
・この主張は、「正しい行為」が唯一性、排他性(正/不正)、要求・禁止と結びつく現代の語法になじまない。徳倫理学としては、「よい」行為を好みたい。両方とも「正しい」というのがおかしいとしても、どちらも「よい」ことは確かだし、両方が「許容可能」と言うのも事実を捉えていない。
・では苦痛に満ちた解けないジレンマはどうか(例:負担の大きい手段で無意識状態の母の命をもう一年延命させるように医者に頼むか、治療を打ち切るよう頼むか)。解けないジレンマは、有徳な行為者自身にとっても道徳的根拠が無い状況であり、<2人の有徳な人物が違う道徳規準を採用しているゆえに判断が食い違う状況>(Pincoffs)ではない点に注意せよ。
・ここでも両方を「正しい」と言うのは不自然かもしれない。しかし各々の行為者は思慮深く、勇敢に、誠実に……行為したのだから、単に「許容可能」と言うのは適切でない。二人とも「よく行為した」と言うべきである。

悲劇的ジレンマ

・では、さらに凄惨な選択肢しかない「悲劇的ジレンマ」ではどうか。ここでは両方とも「よく」行為したと言うのは不適切であり、2人とも悪い(bad)行為をしたと言いたくなるが、すると矛盾が生じる。悲劇的ジレンマに直面した有徳な人は悪い行為をするが、そんな人は有徳ではない。従って、悲劇的ジレンマがあるなら有徳な人はいないことになるのだ(!?)。
・しかしこの矛盾は、既に同定された正しい/悪い行為に基づいて徳を考えるから生じるにすぎない。有徳な行為者は性格特性で定義される。だから、悲劇的ジレンマが有徳な人を消すなら、それは例えば勇敢な人が臆病にならざるえない状況だという事になる。そんなものは無い。勇敢な人は、〔いつでも〕臆病な人のようには行為はしないからだ。だから、悲劇的ジレンマに直面した有徳な人は悪く(悪徳を発揮して)行為する訳ではない。
・ここで、「よいGood/悪いBad/無記Indifferent」の区別が包括的かつ排他的だと考える向きには、〔有徳な行為者がよい行為も悪い行為もしない〕というのは不可能だと思われるかもしれない。
・徳倫理はそう考えない。また、有徳な人の(大部分の)行為が「よい行為」だとも言わない。よい行為という概念は「よい人生」やエウダイモニアとも結びついているからだ。悲劇的ジレンマにおける有徳な行為者の行為はよき人生をダメにするので、よい行為ではないのだ。しかし不正をしたからダメになったのではなく、人生がそういう選択を突きつけてきたという事実ゆえにそうなってしまったのである。
・悲惨な行為した有徳な人は悲嘆の中で人生を送るに違い無いだろう。この違い無さ(must)は概念的である。情け深い人は、自分が1人を殺さなかった事で20人が殺されたことに安寧するような人物ではあり得ない。

・ところで、人生に闇を残さずには抜け出せない状況は「悲劇的」の名に値する。すると、悲劇的ジレンマは解けないジレンマに限らないかも?
・解けるジレンマで生じる「道徳的なわりきれなさ moral residue」がどんな形をとりうるのか再考しよう。行為者への新しい義務の形をとることは明らかだ。
・罪悪感はどうか。より悪いyではなくxを選んだ人は罪悪感を感じるべきか? しかし行為者はxを選んだ事を正当化できるのだから非難の謂れは無く、罪悪感は不適切にも見える。
・後悔はどうか。しかしyはすべきでなかった以上、xを選んだ事に関して何を後悔すべきなのか。尤もな情動的わりきれなさの候補としては<自分がxせねばならなかった状況への後悔>が残る。しかしこれは本人とのつながりが薄すぎて、悲惨な行為をした事への反応としては強さを欠く。「自分が」の所を強調してもそうだろう。これで十分だという人は人生舐め過ぎである。
・という訳で、適切なわりきれなさのあり方は罪悪感でも後悔でもない。〔有徳な人物にとっての情動的わりきれなさは〕、人生に暗部が生じるため悲嘆の中で人生を送るという〔まさに徳にとって内的な形をとるのであり〕、この種の解けるジレンマ先ほどと同じ理由で悲劇的と言うに値するのである。

正しい行為再説

・悲劇的ジレンマとは、有徳な行為者が悪く行為する訳ではないが、人生に闇を残さないと抜け出せない状況だった。ここで、「ある行為が正しいのは、それがその状況下で有徳な行為者が性格にしたがって行うだろう行為であるまさにその場合である」という当初の説明はあきらかにおかしい。
・「性格にしたがわないやりかたで」殺したのだ、と主張していく道もあるがあまりにアドホック過ぎる。それよりはむしろ明示的に直そう。

ある行為が正しいのは、それがその状況下で有徳な行為者が性格にしたがって行うだろう行為であるまさにその場合である。ただし、悲劇的ジレンマの場合を除く。悲劇的ジレンマの場合、有徳な行為者がおこなうだろうまさにその決定が正しい決定ではあるが、それに基づく行為は「正しい」とか「よい」とか言うにはあまりに凄惨である。(また悲劇的ジレンマとは、有徳な行為者が人生に闇を残さなければ根け出せない状況である)。

・この修正を経ても、基本的アイデア「性格が行為に「優先」する」が疑問視される事は無いと思われる。しかし基本的アイデアをより精確に見よう。
・Hudsonは、有徳な人の典型例を把握しなければ有徳な行為が何かは理解できないと述べた。しかし子供の事を考えると、徳規則の理解に有徳な人の理解は必要無いと考えたい。有徳な行為と有徳な人の関係は、後者が前者の観点から定義されるという単純なものではない。有徳な人の概念が一次的だというのは、規則の微調整を行うために必要だということだ(例:始めに辞書的な勇気の理解があるが、勇敢な人を手本にして、痛みを我慢する事が常に勇敢ではないという理解を得るようになる)。
・悲劇的ジレンマの存在は微調整がいつもうまく働く訳ではない事を示す。有徳な人が凄惨な行為を行うといって、その行為が凄惨でなくなるわけではない。アリストテレス的徳倫理学者は、「善」や「悪」を「有徳な行為者」の観点から還元的に定義する訳ではないのだ。
・例えば思いやりある人は、他人の善を構成するのは何で、生はいつ善いのかを知っていなければならないが、それらが善いのは別にこの人が認識するからではなくて、それは人間本性についての事実なのである(Foot)。
・スローガンにはやはり注意せねばならない。徳倫理はその他の倫理概念を有徳な人の概念に全般的に還元するのでは全くない。むしろ逆である。「有徳な行為者の概念は倫理において焦点となる概念である」なら認める。

絶対主義再説

・ところで、徳倫理は絶対的な禁止を否定するとされ、ヤバいと非難されたり柔軟だと賞賛されたりしてきた。教科書はよく「功利主義はあまりに一元的だけど義務論は融通聞かない。その場に応じて考慮事項の重要性を見分ける有徳な人最強や!」とか書く。ここでは、徳規則の無視と絶対主義の否定が相まって、徳倫理は柔軟かつ調停的で、座りの悪い要素をたくさん取り除いてくれると考えられている。なので、有徳な人も悲劇的状況に直面するとか言うとみんなビビる。
・仮に、徳倫理の規則に「誠実な事をせよ」と「不誠実な事はするな」があるとしよう。やわらか徳倫理の擁護者はこう言う。「嘘を全然つかない人が、重要な時でだけは善意の噓をつく人より誠実なわけでは無いんじゃ。むしろそういう人は、「噓をつくな」という規則を神聖化する誤りを犯しているんじゃな。しらふで嘘をつくのだって誠実さとは両立する。そもそもこの世界は有徳な人がときどき義務論的規則を破るように出来とるんじゃ。徳というのはわしらの世界に合うように作らなきゃならんぞい。」
・しかし、この世界はどういう世界なのか。有神論者かつ徳倫理学者のギーチは、嘘をつくなという規則は実際神聖だと言う。神は忠実な僕に罪と罪の2択を迫るわけが無く、あなたが嘘をつかざるを得ないとしか理解できない状況に直面したのなら、あなたには徳が足りていないのだ。この世界は「本当に」徳がある人が噓をつく世界ではない。
・多くの人が、噓の絶対的禁止とか神の保障に関してギーチに賛同できないだろう。しかしかといって、この世界は本当に有徳な行為者がしばしば義務論的規則を破ってしまう世界なのだ(しかもそれは正しい行為なのだ)と一般的主張をするにはほど遠い。
・しかも、我々が困難を感じる多くの事例はそもそもジレンマではなく、徳が低くて第三の道を見つけられないだけだという点に関して、ギーチは明らかに正しい。この世界は本当に有徳な行為者がしばしば義務論的規則を破ってしまう世界なのだという思考は、深刻に徳を欠いた人の思考である。
・そして、絶対的禁止が存在するという点に関しても多分ギーチは正しい。あえて言えば、この世界は、有徳な人なら決して快楽のために児童を性的に虐待したりしない世界である。