えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

自然選択は信頼可能な信念形成戦略を好まないというスティッチの議論について Feldman (1989)

http://www.csus.edu/indiv/m/mccormickm/FeldmanRationality.pdf

  • Feldman, R. (1998) Rationality, Reliability, and Natural Selection, Philosophy of Science, 55:218-227

  仮に信頼可能な信念形成戦略を持つことが進化的なアドバンテージを持つとしても、そういう戦略がこれまで利用可能であったことは出てこないので、我々が実際そのような戦略をもつということは保障されない。ところがスティッチは、そもそも信頼可能な信念形成戦略を持つことが進化的なアドバンテージを持つということ自体を否定する(Stich 1982, 1985)。

  まず、(1)「進化は一般的に真なる信念を生み出すような信念形成戦略を好む」という主張に対しスティッチは、ラットによりガルシア効果の実験を引き合いに出す。この場合ラットは、「ある味の食べ物を食べて病気になった」という事実から、「その味のするものはなんであれ病気になる」と推論した(戦略A)とスティッチは考え、進化はこうしただいたい偽の信念を生み出す警戒的な戦略を好むと考えるのが尤もらしいとする。しかしこの論じ方には幾つか反論の余地がある。

  • (a)そもそもラットは信念持つのか問題
  • (b)信念は持つとして、どうして「この食べ物は病気になるかもしれない」という真の蓋然的信念でなく、「この食べ物は病気になる」という誤信念を帰属させるのか。
  • (c)誤信念をもつとして、どうして「もしある食べ物を食べて病気になったら、似た食べ物を食べると病気になると推論せよ。かつもし病気にならなかったら、似た食べ物を食べても病気にならないと推論せよ」という信頼可能な(というのは多くの食べ物は毒を含まないので)戦略Bではなく、戦略Aを帰属させるのか
  • (d)(1)は、自然選択によって好まれる全ての信念形成戦略が信頼可能だと言っている訳ではないので、いくつか反例があっても怖くない。

  
  さらにスティッチは(2)「信頼可能な信念形成戦略は合理的だ」という主張にも反対し、「信頼可能だが合理的ではない戦略」として2例挙げる。
  ひとつは、一回の試行から有毒なミミズは食べられないと信じるに至るカエル(Alcock, 1979)。このカエルの戦略は概ね真の信念を生むが、実験者がBB弾を転がすとカエルはこれを食べ、別に毒ではないのでBB弾は食べられると推論する。ここからスティッチはこれは「規範的に言って不適切な」戦略であると考えた。しかしこのBB弾食べるカエルが信頼可能な戦略を使ったというのは単に仮定されているに過ぎない。「これまで有毒だったものと似ている者は食べてはダメだと信じよ。かつ、これまで何ともなかったものと似ているものは食べてよいと信じよ」という戦略は確かに信頼可能な戦略だが、他にも色々可能性はあります。例えば「もし無害なら、手に入るだけ食べても無害だと世推論せよ」であれば、食べ過ぎのことを考慮すると恐らく信頼可能ではない。
  2つ目の例は代表性ヒューリスティクスで、スティッチはこれが原始的状況では信頼可能かつ合理的だったが現在の状況ではそうではないだろうという点が(2)への反例となると考えているらしい。しかし(2)は合理性や信頼可能性を状況に相対化するような主張ではないので、何故これが反例になるのかは正直良く分からない。ただし、この例はある状況では信頼可能な戦略が別の状況では信頼可能でないことを示すので、「自然選択は合理的な信念形成戦略を好む」から「人間はだいたい合理的である」を導きだすことへの反論にはなる。

  (1)や(2)の真偽を評価するのはとても難しい。(2)については「合理的」とは何か問題があり、(1)については、真なる信念所持の適応性は関連する欲求や行動への傾向性、環境から独立にはわからないという問題がある。後者に関しては、われわれと十分に似たものを仮定すればいいのかもしれない。しかしそれにしても、多くの信念は別に種の生存とは関係ないだろうし、厳密な真理を知らなくても十分である状況は山のようにあるうえ、偽なる信念の方が適応的な現実的事例もある(例えば、成功に関しては楽観主義でいたほうが利益があるだろう)。(1)に関しては、単純に「よくわからない」というのが実情だ。