えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

心理学は自由意志を幻想として葬り去るだろうか Nahmias (2014)

Moral Psychology: Free Will and Moral Responsibility (A Bradford Book)

Moral Psychology: Free Will and Moral Responsibility (A Bradford Book)

  • Sinnott-Armstrong, W. ed. (2014) Moral Psychology

・自由意志と責任については哲学者が長いこと考えてきて、経験科学に関心を向けるとすると決定論との関係から物理学だったが、状況は変わりつつある。その理由の一つは、神経科学者と心理学者がますます自由意志について論じ、幻想だと言うからだ(Haggard in Chivers, 2011; Bargh, 2008; Wegner, 2002; Greene and Cohen, 2004; Harris, 2012; Crick, 1994; Libet, 1999; Hallet, 2007; Packett, 2007; Montague, 2008; Cashmore, 2010; Hawking, 2010)
・この主張はメディアにも取り上げられている(Sunday Times (10/21/09), ScienceNews (12/6/08), USA Today (1/1/12))。
・この論文では、自由意志に挑戦する科学者(や記者)は科学の示すことを勘違いしていると論じる。しかしこれが取り上げる価値のある問題だと言う点で記者達に賛成だ。自由意志に関する科学的知見は人々の行動に影響を与える(Vohs & Schooler, 2008; Evans, in press; Baumeister et al., 2009; Baumeister, this volume)という実践的含意があるため、科学の発見を適切に理解し、人々が自由意志に関して信じていることの合致を確かにしておくことはますます重要である。

イメージング研究のイメージ

あなたがこの記事を読むという決定は、完全にあなたの脳によって遂行されたのです。『ネイチャー・神経科学』で発表された研究によると、脳スキャナを使うことで人が決定を行っている時の脳のプロセスを厳密に理解し、後にくる決定と相関する脳の活動を見つけることが出来ます。〔……〕バーンスタイン氏はこう説明します「〔……〕われわれは前段階の脳活動に関する情報を使うことで、〔自分が履修する心理学のコースを決めるためのボタンのうち〕4つ目、「その他」を押すという被験者の決定を、70%の精度で予測することが出来ました」。

・実際の実験はより単純で精度も低い。例えばHaynesらの研究(Soon et al., 2008)は、左右どちらのボタンを押すかとチャンスレベルより10%高い程度で相関する前頭極皮質の活動パターンを発見した。著者はこの結果は自由意志の幻想性を支持しており、どうすればいいか分からないと嘆いている。
・とすれば、上の仮想事例はもっと人を悩ませるはずだ。ところが、人々がこの事例をどう解釈するかは、科学者が事例をどう提示するかに大きく依存する。Nahmias, et al., (in preparation) は、この事例に「神経科学者、自由意志が幻想であることを発見」という見出しと「我々の決定を引き起こしているのは脳であり、そのあとで我々はその結果を観察するのです。ちょうど聴衆が劇を見るように」という(架空の)神経科学者のコメントを付した条件と、「神経科学者、自由意志がどう働くかを発見」という見出しおよび「脳内のこうした複雑なプロセスを理解することで、意識的熟慮や自己制御がどう働くか理解されつつあります」というコメントを付した条件を用意した。すると、この事例が「人々に自由意志はない」ことの強い/いくらかの/十分な証拠になっていると答えた人が前者では63%いたが、後者では16%であり、かえって「人々に自由意志はある」ことの証拠となっていると考える人が68%もいた。
・人々が科学者の言うことにそのまま従っているか、この仮想事例自体は自由意志を肯定も否定もしないか。いずれにせよ提示の仕方は信念ひいては行動に影響する。自由意志信念減退に関連する行動を駆動させているものは何か(Nahmias, 2011c)、この効果がどのくらい持続するか、広範な人々における自由意志信念の変化はどういう実践的帰結をもたらすか、はまだ未決である(否定的Smilansky, 2000;肯定的 Pereboom, 2001; Greene & Cohen, 2004; Harris, 2012)。しかしこうした影響力を考えると、科学者の自由意志に対する挑戦が正しいか否かが明らかに問題となってくる。

科学の発見は自由意志と責任に挑戦するだろうか?

・科学による自由意志&責任に対する挑戦を解釈するため、次の図式を使う

1 自由意志は、Xが成立していないことを要求する
2 科学は、Xが(人間にとって)成立していることを示している
3 従って、科学は人間に自由意志がないことを示している
……自由意志が道徳的責任の条件だとして、
4 科学は、人間は道徳的に責任ある主体ではないことを示している

決定論

・Xの候補は「決定論」だと考えられるかもしれない。実際、自由意志に関する哲学的理論「非両立主義」は以下のように言う。

1D 自由意志は、決定論が成立していないことを要求する
1Dが正しければ、人間の自由意志と責任は次の前提により無き物になる
2D 科学は、(人間に関して)決定論が正しいことを示している。

・実際、Bargh and Ferguson (2000) やLibet (1999)、Tancredi, (2007)は、神経科学や心理学が自由意志に課す挑戦は「決定論」であると言う。
・問題:哲学的議論における「決定論」とは、ある系(例えば宇宙)のある時点での完全な記述とその体系を支配する全ての法則によって、任意の未来の時点でのその系の完全な記述を得られるというテーゼである。決定論は閉じた系を必要とするが、〔a〕心理学が研究するのは閉じた系ではないので、決定論を確立することはできない。さらに言うと、心理学のいかなる個別的発見も、先行する出来事のうえで特定の行動が必然的に生じることは示さないので、決定論を確立しない(Roskies, this volme)。
・任意のレベルでの非決定性が自由意志を救うかどうかはよくわからない。量子的非決定性が自由意志を救うと言う人は少数派(例えばKane, 1996)である。
・とすると、哲学はなんで物理学ばかり見ていたのかは単純に疑問だ。実際多くの現代の哲学者は「両立主義」を採用し、自由意志/責任に必要な認知能力の所持と行使は決定論と両立すると考える。〔b〕(適切に理解された意味での)決定論が自由意志を排除すると、科学者は簡単に仮定することは出来ない。
・また科学者は、〔c〕普通の人の理解の中では決定論が自由意志を排除すると仮定することも出来ない(pace, Haggard, Greene & Cohen, 2004)。自由意志に関する実験哲学は、人々の自由意志判断の複雑なパターンを明らかにしたが(Nichols & Knobe, 2007; Nichols, 2011)、Nahmias自身の研究からは以下のことが示唆される。――多くの人は自由意志が決定論によって脅かされるとは考えておらず、考えているとすれば決定論の意味を勘違いして、「行為者の心的状態が行為に一切寄与しない」という含意(心的状態の「バイパス」)を引き出しているからである(Nahmias et al., 2006, 2007; Nahmias & Murray, 2010; Murray & Nahmias, 2012)。
・心理学には人々の自由意志理解や自由意志を脅かすモノ理解の研究ができるし、すべきだ。しかし、自由意志の両立性と決定論に関する論争を決着させることは出来ないし、1Dが〔b〕正しい/〔c〕常識的であると仮定することも出来なければ、〔a〕2Dが正しいと仮定することも出来ない。

自然主義

・何人かの科学者は「決定論」といって「自然主義」——存在する全てのものは自然的世界の一部であり、自然法則に従うという見解——を意味しているように思われる(Haggard, in Chivers, 2011; Montague, 2008; Greene & Cohen 2004)。

1N 自由意志は、自然主義が成立していないことを要求する
2N 科学は、自然主義が成立していることを示している
3N 従って、科学は人間に自由意志(と道徳的責任)が無いことを示している

・自然主義を決定的に証明する科学的発見があるというのはよくわからず、むしろ科学は自然主義を方法論的原理として仮定している。しかし、様々な出来事を自然仮定と法則の観点から説明することで、科学は自然主義を支持する帰納的証拠を積み上げている。2Nは認めよう。
・1Nはどうか。このような自由意志理解は自然主義的理解よりも形而上学的に負荷の大きく、主張する取り立てた動機が必要だ。ここでも多くの科学者は、哲学的正当性や普通の人々の直観に訴える。しかし今日では、自由意志が心身二元論を必要とすると考える哲学者は少なく、全ての両立論者と殆どの非両立論者が自然主義と両立する自由意志論を展開している。
・また普通の人の自由意志理解も自然主義と矛盾しない。アメリカで代表的なサンプル400人を被験者とした調査では、「人間に非物理的(非物質的)な魂など無いとすると、自由意志もないことになる」に賛成したのはわずか29%、反対が41%、中立が30%であった(「道徳的責任」でも殆ど同じ)。逆に「科学者が人間の行動を支配する全ての法則を発見しても、人間は自由意志を持てる」には賛成が79%、中立が16%で、反対したのはほんの5%だった(Nahmias & Thompson, in press)。
・また、自由意志に非物理的魂が必要ならば、心身因果にまつわる形而上学的反論が出てくるため、自由意志への挑戦を展開するのに特定の科学的発見をまつまでもない。
・認知科学の歴史は、二元論を脇においておく方法を示す一連の試みとして理解できる。デカルトは推論と言語能力が自然的メカニズムでは説明できないとしたが、認知科学はますます説明する。しかし「我々は推論や言語能力を欠く」という話にはならないのであり、自由意志でも話は同じだ。

随伴現象説

・科学者が自由意志に関して反自然主義的見解をとりたがるのは、次のように考えているからではないか。

1E 自由意志は、随伴現象説が成立しないことを必要とする
2E 科学は、随伴現象説が成立していると示している。
3E 従って、科学は人間に自由意志(と道徳的責任)が無いことを示している

・1Eは尤もだ(意識と自由意志の関係については後述)が、2Eはどうか?
・意識的過程が、神経相関物があるという意味で「自然化」されたとしよう。このとき、意識過程が行為に因果的役割を果たさないという随伴現象説の主張は、次の2つのうちどちらかをその理由とすることになる。

  • (1)実際に因果的役割を果たしているのは神経相関物の方である

・この選択肢では、個別の科学的発見は自由意志論争に殆ど関係なくなる。この選択を動機づけるのはキムの「因果的排除の議論」(Kim, 1998)だが、これは神経相関物が全ての因果的役割を果たすと仮定するところから始め、意識的性質がそれ自体として因果的寄与を行うことを否定するからだ。
・しかしこの議論は健全でないと思われる。最低次の物理的レベルの性質のみが実際の因果的役割を果たすとする因果性の理論は少ない。いずれにせよ、この種の「形而上学的な随伴現象説」が自由意志にとって脅威になるとしても、それは科学がそうした説を確立するからではない。

  • (2)問題となる意識過程は、関連する行動を引き起こす神経過程に適切な仕方で「引っかかって」ない……遅すぎたり、変なところにあったりする

・この選択肢、「モジュラー随伴現象説」(Nahmias, 2002)は、意識的過程が神経相関物を持つという自然主義的仮定をおき、その神経相関物(モジュール)は行動産出に因果的に関係しないと論じるのである。このモジュールは、我々が今何をしているかの情報をその時/後から手に入れ、行っていることの因果的源泉は意識的過程だと言う幻想を作り出す(Wegner, 2002)。
・ようやくこのテーゼに関してなら、心の科学が支持/不支持を与えることが出来る。そして、自由で責任ある行為には関連する意識的過程が何らかの役割を持つ必要があると日常的直観も哲学も示唆するので、このテーゼの真偽は重要な考慮対象である。「バイパス」が正しければ自由意志はないだろう。

行為における意識の役割

・しかしまだ哲学的分析は終われない。モジュラー随伴現象説の成否は、どの意識的過程が自由意志に関係しているか、そして本当にそれが随伴現象なのかに大きく依存するからだ。Libet (1985)を例に考えよう。

〔リベットの実験〕

・リベットの実験:補足運動野(SMA)における脳波である準備電位(RP)が、意識的な筋肉運動の500ms前に起こる。動こうという「意図、欲求、衝動」の報告から、この気づきの時点(time W)は運動の150ms前=RPの350ms後に位置する。

 RP ――350ms―― time W ――150ms―― movement 

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リベットの結論と解釈(Libet, 1999):意識的行為は、「脳内で無意識的に、人が自分は行為を欲していると意識的に気づくよりかなり前に始まる」。このことは、運動への意識的意図は運動の原因ではなく、以前の(無意識的な)脳活動の結果であることの証拠である。
・リベット自身は、意識的意図とは非物理的な出来事であり、自由意志への脅威を自然主義あるいは形而上学的随伴現象説の観点から理解する嫌いがある。しかし、この実験をモジュラー随伴現象説への証拠としてみることも出来るだろう。
・この実験は様々な研究により再現・拡張されている(Fried et al., 2011 (単一ニューロン記録法); Soon et al., 2008 (fMRI))。更なる研究によって予測精度が増し、そして全ての行動が同じモデルで説明できると仮定しよう。すると、モジュラー随伴現象説と2Eは尤もらしくなってくる。
・しかし、2Eを結論するためには(少なくとも)3つの怪しい前提が必要だ

  • (1)気づきに先行する無意識的な神経活動は「運動の決定」あるいは運動への意図だ
  • (2)この神経活動は、意識的意図形成に関係する過程を「バイパス」するのであり、それを通して働くのではない
  • (3)被験者の意識的気づきの報告は、意識的「決定」である

・既存のデータはどれも正当化しない。〔【A】〕例えば、RPが表象するのは、(1)「意図」や「決定」ではなく、無意識的衝動かもしれない。この衝動は報告される意識経験に「普通は」先立つが、被験者の意図によって「拒否される」かもしれないし、行為は意識的意図によって「トリガーされる」かもしれない(see, Mele 2009)。データは、無意識的過程が行為の十分な原因であることを示せていないのである。Haynesらの研究でも、先立つ神経活動が選択を予測するのはチャンスレベルを10%上回る程度であり、後の意識的思考が因果的に寄与しない事は示されていない。

無意識的衝動(RP)――衝動の気づき(W)――【意識的思考の介入】――運動

・さらに、将来の研究が予測の精度を上げたとしても、〔例えば〕7-10秒前の脳活動から行為を予測することは不可能だ。行為までの間に心を変えることができるはずだからだ。そしてそうであれば、意識的過程は因果的効力を持たない訳ではない。
・〔【B】〕(1)や(2)に反対する別の解釈として、先立つ脳活動は意識的決定の相関物(の一部)であるか、あるいは意識的決定に必要な発展過程(buildup)の一部を表象しているのかもしれない。例えば被験者は教示を受けているので、「衝動がいつ生じるかに注意を払い、生じたらそれにまかせてボタンを押させよう」という意識的な遠位意図(=計画)を形成するというのはありそうだ(Mele, 2009)。この場合、この意識的な遠位意図が無意識的衝動の自発的発生に因果的に影響し、〔この〕衝動の意識を被験者は報告したのかもしれない(⇔(3))。

事前意図――無意識的衝動形成――衝動の気づき(W)――運動 

・実際、2つのボタンのうち一方を押す「衝動」を報告せよという教示と、一方を押す「決定」を報告せよという教示では、後者の報告時点が早く、RP初発である500msよりも早い(Pockett and Prudy, 2010)。Trevena & Miller (2009) も、RPは動かす決定ではなく、動かす/動かさない決定への「準備」の相関物であることを示唆する。
・リベット実験の様々な解釈(Sinnott-Armstrong & Nadel, 2011; Klemm, 2010)もやはり、(1)決定に先立つ準備的な脳活動が予想されること、(2)意識的決定の神経相関物が身体運動を制御する最も近位の過程に影響するには遅すぎるということは、手持ちのデータでは示せていないこと、この2点を強調している。

〔全ての心的状態が随伴現象になる訳ではない〕

・もちろん、更なる証拠によって意識的意図(の神経相関物)は遅すぎる/まずい位置にあることが示されるかもしれない。しかしそのことでさえ、自由意志に対する重要な挑戦にはならないのではないか。
・というのも、意志的行為の経験を振り返ってみれば、運動のすぐ前に特定仕方で運動しようという意図を意識していることなんて殆どないはずだ。意識的なのは、より遠位で一般的な意図・計画と、自分の身体運動のモニタリングくらいである。
・リベット的実験によっては、全ての意識的心的状態が随伴現象だということにはならない。実際多くの自由意志理論において重要視されているのは、我々の意識的熟慮や計画や遠位の意図が、関連する状況下での振る舞いに対し下流で適切な影響を与えるかどうか、と言う点だ。意識的熟慮、推論、計画そして行動の意識的モニタリングが行為に影響を及ぼさないという証拠はない。むしろ証拠は逆である(Gollwitzer, 1999; Baumeister, this volume)。

合理性と合理化

・ところが、意識的な心的過程の因果的影響には制限がある事を示す証拠ならある。道徳心理学は、我々の道徳判断が直観に駆動され、合理化はポストホックであることを教える(Haidt, 2001; Greene, 2007)。社会心理学は、我々は自分では気づきもせず、知っていてもまさか行動に影響するとは思えないような状況要因によって行動が影響されていることを教える。我々の行為は、我々が考える以上に、意識的に考慮して採用した理由/考慮すれば採用するだろう理由に従っていない。
・このことは以下の「合理化からの論証」を示唆する

1R 自由意志は、人の行為がその人がある時点で意識的に考慮した理由(少なくとも考慮すれば受け入れた理由)に適切な形で由来することを必要とする。
2R 科学は、人の行為は人が意識的に考慮した/受け入れるだろう行為の理由に、適切な形で由来しているものではないことを示す。むしろ、我々の行為は別の(無意識的な)要因によって産出されており、我々はしばしば事後的に行為を「合理化」する。
3R 従って、科学は人間に自由意志(と道徳的責任)が無いことを示している

・殆どの哲学的理論は1Rに近いことを受け入れるだろう。モジュラー随伴現象説に関連する証拠も部分的に2Rも支持するが、より重要なのは道徳心理学や社会心理学だ。
・しかし、これらの研究は意識的推論が「常に」ポストホックであることを示す訳ではないし、今後も示さないだろう。こうした研究が示唆しているのは、我々は自分で思っているほど自由意志を持っていない/道徳的に責任ある主体ではないということであり、挑戦は自由/責任の「程度」に向けられているのである。また、他方でこうした研究は、制限を克服し自由と責任を増強する術も教えてくれる(Nahmias, 2007)。

結論

まとめ

1.決定論:真かどうかは分からない。心の科学がその真理を確立するというのはありそうにない。普通の人はおもったより決定論を重要だと思っていない。
2.自然主義:真かどうかは分からない。非自然主義を疑う強固な理由はあり、認知科学は自然主義へ帰納的証拠を提供する。普通の人は自然主義的な自由意志に快く従う。
3.意識と脳の関係を理解させる理論がまだ無いので、科学者は簡単に自然主義が自由意志と両立しないと考える。自由意志が幻想に見えるのは心身関係について無知だからだ。意識的な心的過程がどう行動に影響するかを基盤となる神経過程との関連で説明できる理論を手にして初めて、自由意志の問題はだいたい解けたと人は思うのだろう。
4.意識的な心的過程の神経相関物がどれだけ行動に影響するのかもよくわからない。ただし、遠位の計画や意識的熟慮が随伴現象だという証拠は無い。逆。
5.どのくらいの行動が合理的なのかもよくわからない。理由に従って行為する能力は自律的で責任ある行為者性に重要であり、今後の研究によっては自由意志/責任の限界が示唆されるかもしれない。が、その限界の幾つかは乗り越えることも出来る。

総括

 自由意志はある、が制限付きなので、それをどう発展させるか・どう賢く使うかを学ぶ必要がある。懐疑主義は、状況改善のために努力し、失敗に責任を取り、意思力を発揮し、選択肢を熟慮する、ために必要な能力に関する信念を台無しにしてしまう。制限付きの見解は、こうした徳の余地を残しつつ、不幸な人々への寛容と同情の更なる必要性を示唆する。これは、アメリカにありがちな無制限自由意志観——自分に起こったことは善かれ悪しかれ全て自分にとって受けるに値する―—に対するカウンターでもありうる。