えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

自由意志と心理学的知見 Myers (2008)

Are We Free?: Psychology and Free Will

Are We Free?: Psychology and Free Will

・ありとあらゆる考えられる点においてすべて同一な二人の人物が、それでもある時点において別の選択をすることがあるだろうか? 「Yes」という答えは決定論を前提し、他方「No」という答えは非決定論を前提とする。

決定論に対するよくある反論

・決定論はよく想定されているような困った含意をもつのだろうか?

  • 決定論は運命論を生むのか?

・決定論が正しいと、理想的な推論者は今後起こることをすべて予見することができるだろう。しかしこのことは、我々を諦念させ不作為に導くものではない。我々の行為は結果を持っており、その結果が未来の世界を決定する。このために我々には責任が生じる。
・逆に非決定論が正しいとすると、現在の行為が未来に影響を与えない場合があり、諦念に導かれるかもしれない。責任ある行為はむしろ予見可能性を前提するのである。

  • 決定論は自由な選択を否定するか?

・我々はさまざまな選択肢を考慮し、決定を行う。こうした<実践的自由>を決定論は否定するものではない。決定論は人をして自分の意志に反して行為させたり、選択を経験や未来を作る自由を否定するものではない。

  • 決定論は賞賛や非難を無くすか?

・脳腫瘍のせいで淫行に走った人物がいるが、脳腫瘍の結果に刑事責任があるとは言えないだろう。しかし同じ理屈はどこまで通じるだろうか? アルコールの影響、幼い頃うけた虐待、遺伝的要因によって犯罪をしてしまった人は、その行為に責任があるだろうか? 問題を一般的に言えば、我々はある人の行為〔の原因〕をどこに帰属させるべきなのか? 行為者だろうか、それともその行為を生んだ諸条件なのだろうか?
・この問いは、「リンゴを木に帰するか大地に帰するか」という問いに似ている。りんごは究極的には大地に負うものかもしれないが、それは木の責任を無くすものではない。農民は良いものを称賛し悪い者を罰することができ、リンゴがならなければ木は切られる。人間の場合でも同じである。決定論下でも行為を非難したり称賛したりはできる。
・しかしここで話はややこしくなる。というのは、決定論下で我々は人に関して良いとか悪いとか判断できるだろうか? (脳腫瘍であれ幼児虐待であれ)悪い行動の原因が分かっている分だけ、行為者に責任を帰属させる気はなくなるだろう。責任は説明可能性を前提する(カント)。
・従って、人間の責任は<秩序>と<予測可能性>を必要とする同時に、他方で<自分の行為に関する説明可能性>を必要とする。以下では(a)行為を決定する影響と(b)人間の自由・選択・自己決定の重要性、の両方に関する科学的探究を簡単に概観する。その後、平行した宗教上の事例についても議論する。

心理科学による意志の自由への挑戦

進化の影響

・進化心理学者は、我々の祖先が直面した様々な問題に対する回答としての人間の本性をさぐる。クモやヘビを恐れ、高いところや苦い物を避けるなど、我々は進化の産物として予めの傾向性を持つ

遺伝子の影響

・行動遺伝学や双子研究によって探求される。一般的知性から外向性に至るまで、様々な側面に関して、一卵性双生児は行動的にかなり同一である。
・また、情動障害や反社会的行動などを予め傾向づける<遺伝子と環境の相互作用>も特定されてきている。例えば、家族の死などのストレスにあり、かつ、セロトニンの活動をコントロールするタンパク質をコードしている特定の遺伝子変異を持つものは、鬱になりやすい(Caspi et al.2003)。

脳の操作

・神経科学は脳と心の固い結束を明らかにしている、心理的なものはすべて同時に生物学的でもある。すると、心は随伴現象なのか? それとも自由意志は創発的性質なのか?
・多くの行動が意識的な自由意志から離れて生起するのは確かである。盲視では意識的には見えないものが見えるかのように行為できるし、分離脳の場合非言語的な右半球に提示した刺激を言語的な左半球は気がつかない。また、リベットの実験もある。

親、同輩、文化の影響

・親は子供のマナーや政治・宗教的信念などの領域で実際子供に影響を与える。しかしパーソナリティその他の領域では、たいした違いを生まない。同輩の方が多くの行動や態度の発達に大きく影響する(Harris 1998)。例えばアクセントは親より同輩に似る。
・同輩は、さらに広い「文化」のたった一側面である。

無意識の影響

・バージが指摘するように、日常的な思考や感情や行為の多くが、意識的気付きなしに行われ、つまらない影響でプライミングされる。これはほとんどの人には信じがたい(Bargh & Chartland 1999)。ウェグナーのいうように、意識はしばしば自分の制御を過大評価しているのである。

心理科学による自由の肯定

自己決定とパーソナルな制御

・人々の自由を強化するような支配あるいはマネージングの体系は、一般的に言って健康と幸福を増進させることが知られている。例えば……

・家具の位置を動かしたり電灯を操作できる囚人はストレス・健康問題・再犯が少ない(Ruback et al. 1986)
・課題遂行中にあたって自由裁量がある労働者は志気が高い(Miller & Monge 1986)
・朝ご飯メニューや映画見る時間、就寝時間など、日常のスケジュールに選択権をもった施設滞留者はより幸福だし、おそらくより長生きする。(Timko & Moos 1989)
・食事睡眠に選択がなく、プライバシーを制御できないと考えるホームレスほど、家や仕事を見つけることに関して悲観的になる。(Burn 1992)
・我々は自律と自己決定を深く欲しているし、それを感じられるとき行動は改善する(Ryan & Deci 2006)。

・さらに、不協和に関係した態度変更における内在的動機 達成動機、選択の認知や、自己効力間、学習性幸福、リアクタンス(強制された時自由を回復しようという動機)などの研究も、自由を経験することで人々が利益を得ることをさらに示している。

文化をつうじてみた自由

・個人の自由を重んじる程度は文化によってさまざまである。
・競争的で個人主義的な文化のひとは、個人的自由をよりもち、個人的達成に誇りを持ち、地理的に家族に縛られず、よりおおくのプライバシーを得る。ライフスタイルは多様であり、自分自身のアイデンティティを構築するよう人をいざなう。礼拝の場所や職業を変えることにも比較的自由を感じている。
・一方集団的な文化は強い社会的絆に人々を埋め込む。個人的な選択は例外的である。例えば、コーヒーに色々注文付けることはソウルでは利己的な振る舞いだと思われやすい(Kim & Markus 1999)。

決定論、自由、宗教

・心理学は作業仮説として決定論を採用し、自由の認知やエンパワーメントの利益を記録する。両者は矛盾しないと読者は気づかれただろう。決定論が否定するのは行為者因果という哲学的観念であり、我々の信念や選択の実践的帰結が否定されのではない。
・ところで、決定論と自由の両方を強調する点において心理学と歴史的なキリスト教神学は意外にも近い。人間が自由意志を使って自ら正しい人間になれるという考えは、決定論者のみならず神学者からも攻撃される。すなわち、人間の責任に関する理論が次のような神の属性を否定するものであってはいけないのである。

【先見】ルター「神が予見するならば、自由意志ないことは理性によって分かる」
【統治】エドワード「自由意志ある分だけ神の計画がわれわれにかかることになってしまう。我々の意志も神には明らかな原因の秩序に含まれている。」
【恩寵】ルター「意志が縛られていることは恩寵の基盤である。人間のみでは正しく行為できないのであり、全ては神に属する」

・神的決定論と自然的決定論は当然違うが、人間が自らの意識的知識を超えるものに依存していることを、自由と自己決定の重要性を否定することなく、肯定する点で収斂している。

実践上の知恵:自分は自由で責任があり、他人は影響を受けているものとみること

・自分自身を受け身の存在だと理解することは絶望へつながる。自らの自己決定能力を認識し、そうするよう他人にも勧めることは重要である。
・しかし他人に対しての態度は、その行為が様々の影響を被ったものだと見るほうが生産的である。そうした態度は、同情や効果的な社会再建の望みをあたえるからだ。