えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

コメント:意図には脳の無意識的活動が先立つ件 Misirlisoy & Haggard (2014)

Moral Psychology: Free Will and Moral Responsibility (A Bradford Book)

Moral Psychology: Free Will and Moral Responsibility (A Bradford Book)

  • Sinnott-Armstrong, W. ed. (2014) Moral Psychology
  • 神経科学のデータの観点からコメントします。

素朴自由意志概念とそれに関して神経科学のデータが言うこと

  • 素朴な直観によれば、意識的思考は物的出来事に先行するとともにそれを引き起こし、それが行為に繋がる。近年の神経科学は、我々の意図に先立つ脳内の無意識的過程が、その特定の意図の生起を予測することを示し、この直観を疑問視している(Bai et al., 2011; Fried et al., 2011; Haynes & Rees, 2006; Matsuhashi & Hallett, 2008;)。長いものでは数秒以前から予測できる(Soon et al., 2008)。
  • ナーミアスは、準備的な脳活動が100%の精度で予測を行うことはないという。〔脳活動から行為までの〕間に人は心を変えることが出来るからだ。それはそうだ。しかし心変わりの過程も、もとの意図と同じく、無意識的な脳活動に駆動されたものだろう。
  • どのくらい以前から予測できるかという点は、意志が自由かどうかの論争に実はあまり寄与しないのかもしれない。科学文献で報告される〔脳活動と行為の〕ラグは、
    • (1)予測に使う神経データのクオリティ
    • (2)必要とされる予測の精度
    • (3)意識的意図の瞬間を測定する方法

に非常に大きく影響されることが知られている。

  • 脳手術中に刺激電極を用いて行う研究によると、前運動野への刺激により被験者が気づかない運動を、補足運動野/下頭頂皮質への刺激により運動への意図の報告を、そして頭頂皮質への高い電流により、実際には動いていないのに動いたという報告を引き出すことができる(Desmurget et al., 2009)。逆に補足運動野に高い電流を流すと、「衝動」が経験されそれにだいたい対応する運動が引き起こされる(Fried et al, 1991)。
  • こうした研究においても、意識的意図は確かに現れているが、これは明らかに自由なものでは無いだろう。そして目下のデータによれば、普通の事例においても、意図あるいは衝動を経験するのは行為が起こる少し前であり、それは、皮質の運動野において生成される準知覚的な経験によると考えられる。
  • ナーミアスは、意識的意図が行為に何らかの因果的役割を持てれば、それは自由なものであると言うのに十分だと論じる。しかし、操り人形がさまざまな因果的影響を世界に及ぼしても、それは紐によって全て決定されているのだから、人形が自由だとは言わない。同じように意識も、無意識的な神経活動によって決定されているはずであり、行為の実際の原因は意識的意図ではなく先行する〔無意識的〕脳活動なのである。

随伴現象説

  • ナーミアスは、意識的意図が引き続く行為に因果的に関連していない場合(例えば、遅すぎる場合)、自由意志は深刻に疑われると論じた。
  • ところで興味深いことに、頭頂に損傷を負った患者は、意志的な手の運動に先立つ意識的意図の報告時点に関して、有意な遅延をみせる。すなわち、標準的には意図の報告はだいたい200ms前だが、この場合は50ms前になるのだ(Sirigu et al., 2004)。重要なことに、実際の運動を行うタイミングに関する報告は健常者とかわらないので、脳損傷は意識的意図の経験に選択的に影響しているように見える。同じ現象はトゥレット症候群患者でも生じる(Moretto et al., 2011)。
  • この50msというのはナーミアスによれば遅すぎるかもしれない。しかし、こうした患者は普通の意志的行動を行っているのであり、彼らが健常者に比べて「自由でない」というのはありそうにないだろう。

遠位意図と責任

  • ナーミアスは遠位の意識的意図に真の自由意志の在処を求めていく。遠位意図について脳神経科学は、効果的な実験デザインが難しいという理由で殆ど無視してきた。
  • しかし、まず遠位意図も近位意図と同じ問題に直面する。遠位意図もおそらく、まだ同定されていない脳過程の帰結だからだ。
  • さらに、遠位意図は責任概念との関連が薄いかもしれない。というのは、法および道徳の領域では、我々は遠位意図より近位意図の方に関心を払うからだ。不健全な思考をしても、それが実現されなければ問題ないというのは広く受け入れられている。
  • 我々の直観的な自由意志の感覚は、ひとまず科学的知見と容易に折り合わない。それは追い求めるべき自由意志でないと言う者もおり(Dennett, 1984)、議論は続くだろう。
  • しかし、直観的な自由意志の捉え方を解体するとはどういうことかハッキリさせておく価値はあると思う。自由意志を幻想だとする説は、配分的正儀ではなく修復的司法(正義)を鼓舞したり(Greene & Cohen, 2004; Harris, 2012)、脳の異常による犯罪を免責しがちになる(Burns & Swerdlow, 2003)かもしれない。しかし健康な人の行為だってその人の意識的制御の外にある影響に晒されているのだから、「私ではなく脳がやった」はいつ通じるのか、通じないなら何故か、これらの問いは本当に重要だ。
  • 社会は個人の責任という概念を必要としており、神経科学の知識が増えたからじゃあ捨てましょうというわけにはいかない。しかし、我々は両者の間には真の緊張を見て取る。各分野の対話により、神経科学的知見と両立可能な責任概念についてコンセンサスが得られることを望みたい。