- 作者: 日本哲学会
- 出版社/メーカー: 日本哲学会
- 発売日: 2014/04/01
- メディア: 単行本
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- 串田純一 (2014) 「為されざる要なきを為すこととしての能力」 『哲学』, 45: 151-163
形而上学Θ巻でアリストテレスは、「能力は発揮されていない時には存在しない」というメガラ派の議論に反対し、発揮されていない時に能力を「持っている」とはどういうことか示そうとしますした。ハイデガーはここで、ある行為の能力を持つことには、その行為をする必要がある時にそれを生じさせることのみならず、その行為をしない必要がある時にそれを生じさせないことが抜き難く属しているという点に着目します。「現実的に-能力が-あるということは、十分な準備の下で、為す-体制に-あるということであり、それにはただ遂行への脱抑止〔Enthemmung〕が欠けているのみなのである。したがってこの脱抑止が眼前的となり出現しているとき、つまり有能な者が自ら具え[Zeug]を活かす時、そこでの遂行こそが真に実現であり、それのみがそうなのである」(GA33, 218-219)。そしてここから、「行為Aを為す能力を持つ」ことを、Aしない必要がないときにのみAを生じさせること、という読解を引き出します。
筆者はこの読解をもとに「為さない必要」「なす必要」「実現」の3点から能力の諸相を整理した後(下図)、「為す必要も為さない必要もないこと」が能力一般を可能にする地平であるという主張にうつります。このことを示すのが「後悔」であり、そこではまさに「為す必要も為さない必要もないこと」が、後から「為す/為さない必要があった」、すなわち、「自分にはそれを為す能力があった」こととして取り返されるのです。最後に、この地平は現存在により投企されたものであること、そのことは存在者全体があらゆる必要性を提供しなくなる「退屈」によって開示されうることが指摘されます。退屈においては「必要性という窮迫の不在」がかえって窮迫するものとなっており、このことは現存在にはこの地平の投企をやめることが出来ないことを意味しています。ハイデガーはこのように現存在がどうしても可能性を投げることやめられないことを指して「自由」と言いました。本論の文脈において言えば、「為さない必要がない何か」を為さないことについて、われわれは常に既に自由であってしまっているのです。
為さない必要 | 為す必要 | 実現 | 主な解釈・名称 | 能力との関係 | |
1 | × | × | ○ | 恣意、「自由」 | 最も固有な能力 |
2 | × | ○ | ○ | 応需、強制、有能 | 一般的な能力 |
3 | ○ | × | × | 抑制、自制、待機 | 能力に随伴 |
4 | × | × | × | ?(自由) | 能力の超越論的な地平 |
5 | ○ | × | ○ | 無抑制、放埒 | 欠如ある能力 |
6 | × | ○ | × | 無能 | 能力の欠如 |
7 | ○ | ○ | ○/× | 葛藤、不能 | 能力の破綻 |