Surrounding Free Will: Philosophy, Psychology, Neuroscience
- 作者: Alfred R. Mele
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr
- 発売日: 2014/11/07
- メディア: ハードカバー
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- Mele, A. (ed.) (2014). Surrounding Free Will (Oxford University Press)
- Ch.2 Gopnik, A. & Kushnir, T. The Origin and Development of Our Conception of Free Will
- Ch.7 Mylopoulos, M., and Lau, H. Naturalizing free will ←いまここ
- Ch.15 Clarke, R. Negligent action and Unwitting Omission
1 序論
- 自由意志の自然化プログラム:自然科学・社会科学の方法とデータによって自由意志の理論を構築・評価する動き。以下のサブ・プログラムを持つ。
- 1.現象学プログラム:自由意志の経験[=現象学]を探求する
- 2.直観プログラム:自由意志に関する直観を体系的に調査する
- 3.認知心理/神経科学プログラム:認知神経科学や心理学のモデルやデータを使って自由意志の理論を評価
- この論文は、このそれぞれについて批判的に検討する
2 現象学プログラム:自由意志と現象学
- 自由意志の理論は、「自由(の欠如)は私たちにどう感じられるか」を説明しなければいけないとされる(Nahmias et al. 2004)。
- まず、自由意志の経験の精確な記述が目指される。次にこの記述は、それと相容れない自由意志の理論を却下するひとまずの根拠となる。(※なぜ相容れないかについて十分な説明があれば問題ない)。
- ここで、理論と経験[現象学]の関係について一般的に考えたい。
- 一方で、経験の構造や特徴を説明しようとする理論がある。この場合、理論の評価はもちろん経験の記述に照らして行われなければならない。
- 他方、経験とはほとんど何の関係もない理論も存在する。たとえばブラックホールや細胞分裂にかんする理論である(※データを感覚的に経験しなければならないという当たり前の関係はある)。
- 自由意志の理論は、以上の二つの極の中間にあると考えられている。自由意志の理論は、経験の特徴を説明することを主要な目的としている訳ではないが、ブラックホール理論以上の仕方で経験と結びついている。
- 色理論の主要な目的は生物の色識別能力を説明することだが、色知覚には独特の経験が伴うので、この経験についても説明・予測ができるべきだとされる。自由意志の理論もこのようなものだとされている。
疑問1:そもそも自由意志の経験なるものはあるのか
- Nahmias et al. (2004) は「自由意志の経験」として、「熟慮の経験」、「決定の経験」、「自分がある行為を自由にもたらしたという感じの経験」、をまとめて扱うという。だがこれらのものは全く別ものであり、とくに私たちが「自分がある行為を自由にもたらしたという感じ」を経験するというのは一体どういうことなのか。
- この経験はたとえば、「自分の行為を決定論と両立するものとして経験すること」なのか? だが哲学の理論を極端に内面化していない限り、このような経験を私たちがすることはありそうにない。
- 同じ理由で、「行為以前の宇宙の状態が一定だとしても、別の行為をすることができた」という経験も私たちはしないだろう。
疑問2:自由意志の理論は自由意志の経験を説明しなくてはならないのか
- 上のような経験を私たちは実際していると言う人もいる(Searle 1984)。だがそうだとしても、そもそも自由意志の理論は自由意志の経験を説明しなくてはならないようなものなのだろうか。
- 例えばリバタリアンの理論は、自由意志は決定論と両立しないとする。だがこのことは、自由意志経験について何の予測もしない。
- 一方両立論は、自由意志を「自分の意志の決定に従って行為する」能力だと特徴付ける。このような説は、「私たちは自分の行為を意図・意志・欲求によって引き起こされたものとして経験する」という経験についての予測を生むと思われるかもしれない。
- だがこの考えは、「意識経験は心的活動を誤りなく反映している」という前提に基づいている。だが無意識的な心の働きを考えれば、この仮定は誤っていると考えざるを得ない。
- 「行為が意図によって引き起こされている」と経験されるからといって実際にそうだとは限らないし、逆も然りである。
- だがこの考えは、「意識経験は心的活動を誤りなく反映している」という前提に基づいている。だが無意識的な心の働きを考えれば、この仮定は誤っていると考えざるを得ない。
- この論点は一般的なもの。自己・行為者性・合理性などの本性について、経験から知ることは難しい。従って、自由意志をこうしたものの観点から理論化するなら、経験を重要視するのは危険である。
3. 直観プログラム:自由意志と素朴直観
- 哲学者は素朴直観を自説の根拠とすることがある。その結果、「自分の立場を支持するよう、普通の人の口に自分の直観をつめる」(Nahmias et al. 2005)という不幸な状況が現れている。直観プログラムは自由意志にかんする素朴直観を体系的に調査することで、この苦境を回避しようとする。
- だが、そもそも素朴直観は自由意志の理論にとって重要なのか?
Murray & Nahmias (2014) の素朴直観擁護論とそれに対する疑問
- M & N :自由意志は、道徳的責任や非難、自律その他の概念を介し、わたしたちの規範的思考のなかで中心的な役割を果たしている。日常的な理解から切り離して自由意志を理論化することは、人々の実践から切り離された何か別の理論的概念を問題にすることになってしまう。
- 疑問:日常的な道徳言説には、「自由意志」なんてほとんど出てこない。
- 応答:言葉が出てくるかどうかは問題ではない。問題は、普通の人も哲学者も道徳的責任には自由意志が必要だと前提している点だ。自由意志とは、何であれ道徳的責任に必要とされる種の制御のことを指す。道徳的責任にかんする判断をする人は、暗黙裏に自由意志概念を用いている。なので、「道徳的責任」の直観を調べることが自由意志理論の制約として重要となる。
- 疑問:仮に道徳的責任という概念と自由な行為という概念の外延が等しいとしても、前者に訴える人が(暗黙裏に)後者に訴えているとはかぎらない。〔責任帰属は自由帰属に基づいておこなわれるのであり、その逆あるいは独立ではないと示さねばならない〕
- 疑問:そもそも上の見解が正しいなら、自由意志そのものにかんする直観ではなく道徳的責任にかんする直観を見るべきである。
- 応答:言葉が出てくるかどうかは問題ではない。問題は、普通の人も哲学者も道徳的責任には自由意志が必要だと前提している点だ。自由意志とは、何であれ道徳的責任に必要とされる種の制御のことを指す。道徳的責任にかんする判断をする人は、暗黙裏に自由意志概念を用いている。なので、「道徳的責任」の直観を調べることが自由意志理論の制約として重要となる。
自由意志という素朴疑念はあるのかという疑念
- 私たちのDNA概念は特定の科学理論から素朴理論に入ってきたもので、素朴DNA概念はDNA理論の制約にはならない。自由意志概念もこれと同じで、哲学・神学理論に起源を持つのではないか。
直観の多様性からの疑念
- 既に多くの実験結果が、人々の自由意志直観は両立論的か非両立論的かで個人間のばらつきがあることを示している。
- また個人内でもばらつきがある。Knobe & Doris (2012) によれば、自由直観は少なくとも次の三点に依存する。
- (1)シナリオの抽象性(Nichols & Knobe 2007)
- (2)行為の道徳的価値(Knobe 2003)
- (3)判断者と行為者の関係
- すると、「これこそが自由意志の素朴概念だ」と言えるような単一のものはなく、人々は多種の自由意志概念を持っていると思われる。そして様々な自由意志の理論は、そのうちのどれかを説明している。
- だとすれば、ある直観との合致はその理論を支持する根拠にはほとんどならない。他の理論は他の直観を捉えているはずだからだ
- 応答:直観のばらつきのうちどれかは誤りである。
- 例:Murray & Nahmias (2014):人々は本当は両立論的直観を持つ。だが決定論というテクニカルタームの理解が不十分なため、非両立論的な回答をしてしまう。
- 疑念:テクニカルタームをよく理解した上での判断を求めるなら、もはや直観など必要なくなるのでは。
- 応答:そうではない。論争に関して注意深く考えるが、しかしどちらが正しいかについて心を決めていないような人間(「反省的不可知論者」Mele (2006))の直観が重要になるだけである。
- 疑念:そのような人の判断は、いくら本人にとって直接的なものに思われるようと、やはり係争中の理論から派生したものである。このため、理論的論争の決着には役に立たない。
4. 認知心理学/神経科学プログラム
- マクロレベルの決定性とミクロレベルの決定性は独立である(Roskies 2006)。従って、神経科学は宇宙の決定性については何の情報も与えない。
- だがこの最後のプログラムは、前二つよりも有望だ。自由意志は(特に両立論者により)熟慮・意思決定・行為の制御・意識などと結びつけられており、これらのはたらきを明らかにする神経科学や認知心理学は競合する自由意志理論の間で判定を下すことができる。
- 特に自由意志と意識の結びつきは、リベットやウェグナーによって反撃を受けてきた。
- よく知られているが、リベットには批判が多い。たとえば、被験者の内観的な時間報告の信頼性やRPが何を表象しているのかについて議論がある(Banks & Isham 2009; Schurger, Sitt, & Dahaene, 2012)。また、彼の実験は一切の事前計画のない自然発生的な行為にかんするものだが、我々の行為の大部分は事前に計画があるという点でも限界がある(Mele 2009)。
- だが、「被験者が報告する行為を決めた時間よりもRPが早い」という基本的な結果はロバストで、再現や洗練もなされている。
- 一方ウェグナーの有名な実験たちの方は、類似パラダイムで両立する結果が出てはいるものの、再現されていない。さらに、あまり注目されていない方法論的問題もある。
【I Spy実験】(Wegner and Wheatley 1999)
被験者と実験協力者が向かい合って座る。机の上にはマウスが一つとモニタがある。モニタにはカーソルのほか、背景にいくつかの対象が映っている。
二人はこっくりさんの要領でマウスに指先をのせ、ゆっくり円を描くように、そして30秒ごとに指を止めるよう指示される。その後10秒のインターバルがあり、被験者はかく乱音声と称する音楽と単語をイヤホンから聞く。だがこのとき実験協力者には、イヤホンを通じて、次の試行では特定の対象上にカーソルを停止させるよう指示が飛んでいる。また停止のタイミングについても指示がなされ、被験者はその対象の名前を停止の30秒前・5秒前・1秒前・1秒後に聞いていることになる。なお指示がない場合、協力者は被験者がマウスを止めるにまかせている。
インターバルのなかで被験者は、「自分がどれだけ止めようとしたか」を線分上のマークにより報告する。これは実験者によって百分率でコード化される(止まるにまかせた[0] – 止めようとした[100])。<結果>
実験協力者がマウスを停止させる時、被験者は線分上でおよそ52%の部分にマークした。さらに、プライミングの単語が実際の停止と近いほど意図性が高まる傾向が見られた。つまり、30秒前に聞いた場合には44%、5秒前と1秒前の場合には55-60%にあがり、1秒後だと45%に下がる
- ウェグナーらの結論:「被験者には、強制された停止を自分が意図したものとして知覚する全般的な傾向がある」
- だが平均的な被験者は線分の途上にマークしている。もし自分が意図的に停止したと信じているなら、被験者は100に近い部分をマークしなければおかしい。
- また第二の行為者の参加は状況を非常に曖昧なものとしている。被験者は止まるにまかせたとも止めたとも判断していないかもしれない。たとえば、被験者には特定の対象上でカーソルを止めようという意図はなかったが、協力者と一緒にカーソルを動かしていたことによって、やはり停止に貢献したと感じたのかもしれない。
【Helping hand 実験】(Wegner, Sparrow, and Winerman 2004)
被験者は鏡の前に立つ。被験者の背後には「手担当の人 [Hand Helper]」がいる。被験者の視点からだと、自分の手がふつうある位置に後ろの人の手があるように見える。
手の人はイヤホンから指示を聴き、一定のジェスチャーをする。被験者は、同時に同じ指示を聞いている場合と聞いていない場合がある。
その後、被験者はいくつかの質問に7件法で答える。特に重要なのは、腕の動きに関する制御感覚を測定するとされる質問である。「腕の動きに関してどのくらいコントロールしていると感じましたか」と「腕を意識的に動かそうとどのくらい感じましたか」がこれにあたる。<結果>
指示を聞いていた条件でのスコア(M = 3.00, SD = 1.09)は、聞いていない条件でのスコア(M = 2.05, SD = 1.61)よりも高かった。
- ウェグナーらの結論:〔指示を聞いていた〕被験者は腕の動きを制御・意志できるという感覚が増している
- だが、質問が本当に「制御の感覚」を測定しているかはかなり疑わしい。この質問は、「あたかも」自分がコントロールしているように事態が進行しているという単なる判断を聞いているだけなのではないか。さらに、指示を聞いていた条件のスコアも非常に低い値にある点にも注意すべきだ。
- 以上のような実験は、被験者が行為への意志を誤って経験していることを示す証拠としてしばしば引用されている。しかし以上の点を踏まえると、これらは想定されているほど強力な証拠ではないことがわかる。
- さらにこれらの実験は、「全てのあるいは典型的な意識的意図が幻想だ」という一般的主張を支えるには不十分であり、そうである以上、意識的意図は行為を引き起こさないという見解を支持することもできない。
- とはいえ、この種の実験が行為の産出における意識の役割という問題に迫るものであることは事実であり、さらなる研究によって自由意志の研究にも進展がもたらされるだろう。
5 結論
- 色々批判したが著者らは自由意志の自然化には好意的である。