えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

集団は信用を確保するなかで行為者になる 筒井 (2014)

https://actiontheories.wordpress.com/2014/03/01/%EF%BC%88%E6%97%A2%E5%88%8A%EF%BC%89%E3%80%8E%E8%A1%8C%E7%82%BA%E8%AB%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%8F%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8F%B7/

  • 筒井晴香 (2014) 「集団はいつ行為者となるか:P.ペティットの議論に見る集団行為者性の関係的性格」, 『行為論研究』, 3, pp. 85–113.

 主にプティットの議論を紹介し、個人行為者に還元されない集団行為者のあり方について考える論文です。

 プティットの議論は簡単に言うと以下のようなものです:集団で意思決定を行おうとする際、「これまでその集団が行ってきた意思決定との整合性」という観点をとるか、「現在のメンバーの見解との整合性」という観点をとるかによって、採用すべき見解に大きな違いが生じる場合があります。そして後者の観点を採用すると、(1)メンバーが集団を作ることで共有目的としている何か(Xとします)の追及が妨げられたり、(2)見解をコロコロ変える集団になってしまうので他の人たちから信用されなくなったりします。これを回避すべく、後者の観点を犠牲にして前者の観点から見解が採用されることがあります(「理由の集合化」)。これはすなわち、集団が各メンバーから離れた独自の心をもつことが可能であるということです。

 この議論を前提に本論文は、(1)「目的の共有」によって理由の集合化が起こるのは、結局個々のメンバーが自分の目的Xの達成のために振る舞うからなのであり、還元的説明ができてしまうと議論します。他方の(2)「信用の確保」がメンバーの共有目的となっている場合はどうでしょうか。ここでは事情が違う、と指摘されます。なぜなら、この目的には「集団が一人の行為者として見られること」が含まれているからです。「集団の行為者性は、共通の目的を達成する上での単なる副次的な結果として実現するのではなく、目的に構成的な仕方で関わっている」。このためここでは還元不可能な意味で集団が行為者になっている。したがって集団は、コミュニケーションの相手として他の行為者と同じように振る舞うことを期待され、実際行為者として扱われるとき、還元不可能な意味で行為者になるのです。
 
  ◇  ◇  ◇

 これは論文を読んで私が思ったことですが、「信頼の確保」は「目的の共有」に対して道具的関係にあるので、後者を捨てると前者も救えないのではないか、というのが気になりました。また、個人的には以下の注22が気になりました。

〔……〕そもそもなぜ、集団が周囲から行為者のように扱われることが起きるのか。〔……〕ごく単純な説明としては、次のようなものが考えられる。人が各々、目的合理的な振る舞いを取った結果、集団レベルでの通時的合理性が副産物のような形で生じる。それがわれわれの認知においては行為者のように見え、行為者としての扱いを受ける中でやりとりが生じていく。やがて、集団が一人の行為者として、他の行為者との相互関係の網の目の中に地位を得るようになる。  p. 109