えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

主知主義と主意主義 シュナイウィンド (1998) [2011]

自律の創成: 近代道徳哲学史 (叢書・ウニベルシタス)

自律の創成: 近代道徳哲学史 (叢書・ウニベルシタス)

  • シュナイウィンド・J (1998) [2011] 『自律の創成』 (田中秀夫監訳 法政大学出版局)

第一部 近代自然法の興亡

第二部 完全性と合理性

1 自然法理論の諸起源

  自然法概念の起源はストア派にあり、それは理性の命令である。おもにキケロによりローマに伝達されたこの概念は、交易拡大の中で万人が理解できるよう意図された「万民法」の観念と一体化する。また、キリスト教の大規模化に伴う教会法の明文化によって、聖書の指針と万人に共通の法(生来の性質により認められる法)が自然法と同一視されるようになった(『教令集』(1140))。

2 聖トマスの自然法道徳

  この混沌状態を整理したのはトマスだった。永遠の法は定められた目的を達成するよう万物に指示し、世界を調和させる。我々の目的は観想を通じた神との結合で、それにより来世の幸福が期待できるが、〔現世での〕道徳も救済に不可欠である。道徳的徳は習慣であり、それは実践にかかわるから、実践理性の原理に導かれなければならない。そしてその原理が自然法である。
  意志は知性に従属する〔主知主義〕。知性が善とみなしたものにしか意志は向かえないからだ。実践理性の基本原理は「善は行われ、悪は避けられるべきである」であり、これは事物の本性をも明らかにする。すなわち、我々は自己保存、神の崇拝、社交的態度を自然に求めるのであり、自然法もこれを命じる。我々が法を知りうるのは、良心に法の種が植え付けられている部分(良知)があるからだ(ただし我々の罪深い本性や状況の不十分な理解により個別の判断が失敗することはある)。また我々は自然法の認識を通じて永遠の法にあずかっているのであり、決して自己統治しているのではない。
  トマスは現実には愛の戒めを補った十戒を自然法とした。中世の批判者は自然法の存在を認めつつ、意志と善に関する見解に異をとなえることとなる。

3 主意主義における意志と善

  主知主義と主意主義の論争はトマス批判から生じた。主知主義によれば悪は無知から生じる。しかし無知について本人を責められるか? むしろ責任は神にあるのではないか(アンセルムス 1033-09)? この疑問が出発となり、スコトゥス(1266-1308)はルシファーの罪についてこう論じた。確かに意志は善とみなされたもの(有益なもの)を追い求める。しかし正義を追い求める意志もあり、前者の相応な程度は後者により定められる。ルシファーは前者の意志が強すぎ、求めるべきでないと知っていた善を求めたから堕落したのだ。
  ここで〔後者の〕意志が善と切り離される点が重要。トマスの自然法の第一原理は理性的なので、神の意志をも支配する。「命じられていることは〔……〕それ自体が善だから命じられる」。一方スコトゥスにとって意志は知性より崇高である(「神に関しては全てのことが可能である」(マルコ, 10, 27)。従って神は人間に関する法(二枚目の石版)を別様に定めることもできた。オッカム(1258?-1349)はさらに、神は自らを愛さないよう命ずることもできたと論じた。
  こうした見解は、神がアブラハムに息子殺しを命じたことなどを説明できるが、主要な動機としては神の全能を擁護するために提唱された。かわりに道徳の恣意性という犠牲が生じたが、これを気にしなかったルターやカルヴァンがこの説に無視できない決定的位置を与えていくことになる。

4 ルターの二王国

  万人に通用するのは理性で得られる自然法だけだが、罪により推論の力が衰えるので、その再公布のために十戒と聖書が必要だとルターは考えた。ここまでは古典的だが、法の役割が大きな改革される。単に「邪悪なものを拘束する」だけでなく、「我々がみな罪人であると確信させる」役割があるのだ。自然法は何をすべきか示すが、それを実行する力を与えない。これは、実行への努力が不可能だということではなく、努力が正しい意志によって生じることが——恩寵を受けたもの以外には——不可能だということだ。恩寵を与えられたものに法は必要ない。「律法は〔……〕不正な人のために与えられている(テモテ1, 1, 9)」。そして福音書は、恩寵が期待できるというよい知らせを伝える。
  ルターはアウグスティヌスから2つの王国の学説を継承した。恩寵が与えられる人からなる霊の国と邪悪な人からなる世俗の国だ。霊の国は来世にのみあるではなく、現世においても設立される。神による救済は我々の罪深い本性までは変えない。そこで正しい人にも法が必要とされる。またルターは二つの国を、万人を統治する統治の種類によって区別することもある。すなわち、万人は行動の制御のために法を必要とすると同時に神の僕でもある。しかし福音書のもとに生きるのは少数である。

5 ルターの主意主義

  ルターは救済とは無媒介のものだとしてカトリックを批判する。カトリックは、正しい行為を自由に選ぶことで救済を受けるに値する人間になるというペラギウス主義を継承。しかしルターによれば、信仰のみが義認をもたらし、信仰は恩寵によってのみ到来する。自由意志は世俗にかかわるにすぎない。
  アクィナスは自由意志と神の助力が協力して救済へ至らせるとして理性と信仰を和解させようとしたが、ルターは神秘の存在を受け入れる。神秘の最たるものがなぜ神は我々に堕落した本性を与えたかという点であり、これは神がそう意志したからそうなのである。神には情念がないので法は必要ない。だから、神の法は人間が理解できる基礎を持たないのである。

6 カルヴァンの人文主義的主意主義

  教会政治と統治、古代の哲学者の評価について意見を違えるものの、主意主義や二種類の統治など多くの点でカルヴァンとルターは一致する。神の基本的命令は「道徳法」と呼ばれ、これは心に書き込まれるが、誤謬に満ちた我々には殆ど理解できない。そこではっきりした証として書かれた法がもたらされた。
  カルヴァンはトマスに倣い、法のキリスト教的定式化は、神の愛と隣人への愛の原理だとする。しかし役割の点で彼の自然法理解はルターにやはり近い。すなわち「罪深さを意識させる」、「悪人を抑制する」、そしてキリスト教徒に必要な役割として「選ばれた者に自分の義務をよりはっきり意識させる」である。こうした役割によって、第二の石版から生活の枠組みがもたらされる。しかし法は外的順守以上のものを要求する。法は魂をも形作るのであり、たとえば心の中での殺生をも禁ずる。この内的要請は我々の力を超えており、この意味で法は恩寵の必要性を教える。
  自然法は正不正をしらせるから、無知という言い訳は通じず、人間はおのれの罪深さを理解する。意志は知性に必ずしも従わない。このことは、意志の自由の欠如で説明すべきではない。すべての行為を正しく行う可能性を人間に帰すのは冒涜だからだ。恩寵なしには正しい選択はできない。かといって、我々がいま自然法に従えないのはいい訳である。善良な天使は善から顔をそ向けられないのだから。
  恩寵によって人は変わるが、それは完全になるという意味ではない。しかし選ばれた者は潔白な人生を送るよう選ばれたのだから、さらに向上するよう「激しく突き動か」されるはずだ。愛によって法に従い、利他的になり、苦しみに耐え、勤勉に働くようになるだろう。神は神自身の目的に向けて万物を配置するから、我々は法を全く理解できなくてもそれに従うべきである。
  自然法により実現する現世の正義は「外的で偽り」だが、その秩序は有用なので現世の善で報われる。従って自然法は罪深いものさえある程度は導くのだが、恩寵から生じる秩序に取って代わることはできない。
  ルターにとってもカルヴァンにとっても、道徳そのものは世俗にのみかかわり、神の支えを持たない。神には情念がないので法を必要としない。恩寵によって神に触れることはできるが、そのためにできることは何もない。神は人間の共同体を超えているのである。