えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

『解釈主義の心の哲学』 金杉 (2014)

  • 金杉武司 (2014) 『解釈主義の心の哲学』 (勁草書房)

  前半1/3を占める第一部(1、2章)は解釈主義に関する基本的な説明で、デイヴィドソンやデネットの諸著作と Child (1994)、そして何より信原 (1999) に目を通した事がある人には大変親しみある内容です。解釈主義は、心脳同一説・機能主義とは心の法則性を認めない点で、非法則的一元論とは心の因果性を認めない点で区別される、全体論的な行動主義として現れます。ここで注目すべきこととして、解釈主義は命題的態度(の全体)を行動傾向(の全体)と同定するため、デイヴィドソンとは異なり、行為の反因果説を採用する事があげられます。この際、反因果説では「行為の理由」と「行為を実際に行った理由」を区別できないというおなじみの批判は「包括的合理化」(信原)によって対処されます。また、「行為の説明は行為の生起の説明でなければいけない」という論点に対しては、行為の説明には適切な反事実的条件文が成立すれば十分だというホーガンやベイカーの説に訴えて対処されます。


  本書の大部分を占める2部は、解釈主義の内在的問題に対するディフェンスに捧げられます。

  まず3章(これが利用されています)ではデイヴィドソンの「思いと語り」を主な参照論文とし、動物は言語を持たないので命題的態度を持たないと主張されます。信念の所有者であるためには信念の誤りを認識できなくてはならないが、そのためには可能性の認識が必要であり、そして可能性の理解には言語が必要(野矢, 2002)という具合です。

  4章(『シリーズ心の哲学I』の論文が利用されています)は解釈主義が消去主義に繋がるのではないかという論点に反論するものです。この章のポイントは、解釈という営みの眼目は、科学理論の眼目である出来事の制御ではなく、「理解」だという点です。これにより、解釈という実践がより有効な科学の実践に取って代わる事はありえず、そしてその有効な解釈実践の中で措定されている心的状態は実践的な意味で存在すると言えるということになります。

  5章は解釈の不確定性を扱います。著者は解釈の不確定性が生じる根幹に、解釈にあたって主体が満たしていると想定すべき合理性の要請は複数の原理からなり(自制の原理/機能的推論のための全体証拠の原理/演繹的推論の原理/内的整合性の要請/真理性の要請……)、それを最大限に満たすやり方が複数あるという事態を見いだします。ところで、解釈が不確定だとすると、主体がどんな心的態度を持つかという問題は事実の問題ではないということになり、命題的態度の実在性が否定される事になりそうです。しかし著者は、それはむしろ「解釈相対的な事実」問題であり、日常直観がとらえているのは命題的態度の実在性は形而上学的実在性でないのだからこれで十分なのだと結論されます。

  行動主義が自己知の特別さを説明できないというのはよく知られた問題点です。この点に取り組んだのが6章です(これこれと、シリーズ新・心の哲学の論文が利用されています)。自己知には内的知覚説が根強くあります。しかし、この説は自己知の確実性を、内的知覚プロセスの信頼性という偶然的要素に帰すため、自己知と確実性の間の必然的つながりが失われます。そこで注目されるのが「合理性説」と呼ばれる立場です。まず、合理的な主体は命題的態度を合理性に従って適切に調整する必要があり、その可能性の条件として確実な自己知が必要なのです(「「合理的調整」の議論」;Shoemaker, 1988, 1994; McGinn, 1997」。しかしこれでは、すぐれた自己解釈によって確実性を達成するという描像を許容してしまいます。解釈によって帰属される態度は当人の「コミットメント」に関して中立なので、適切な自己知の説明としてはふさわしくありません。そこでエヴァンズの透明性手続きが注目されます(Moran, 2001)。エヴァンズは、主体は<「あなたはPと信じているか?」という問いを「Pか?」という問いに変換して判断を下し、それに基づき、解釈なしで、対応する信念を自己帰属させるかどうかを決める>という手続きを行うと論じました。この手続きは、内容に関する判断(コミットメントが含まれる)から端的に自己帰属判断を行う技能知によって成立します。つまり、解釈主義は存在論的には命題的態度を解釈に従属させますが、しかしそれは認識論的に言って自分の命題的態度を解釈によって知らなければならないというわけではなく、技能知に基づいた自己帰属が可能だという事です。

  最後の7章(これこれが利用されています)はアクラシアと自己欺瞞という不合理性の問題を扱ったものです。前者に関しては、全てを考慮した判断を行う視点が2種類ある(Siono, 2008)とすることで、アクラシアにおける自由を救います(詳細はこちら)。しかしここでは二種類の判断に応じて主体が分裂してしまいます。他方、自己欺瞞に関してはいわゆる「静的パラドクス」(矛盾する信念の同時所持)をみとめ、自己のコミットメントの無い命題的態度の存在に訴えてこの現象を説明します。しかしこちらでも当然主体の分裂が導入されます。この両事例に関して、しかしそれでも別の意味では、すなわち自分の他の心的状態と合理的ネットワークを形成しているという意味では、こうしたイレギュラーな判断や心的状態を「自分の」ものだと言う意味があると結論されます。