えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

コントとベルナールにおけるブルセの原理 カンギレム (1966) [1987]

正常と病理 (叢書・ウニベルシタス)

正常と病理 (叢書・ウニベルシタス)

  • カンギレム, G. (1966) [1987] 『正常と病理』(滝沢武久訳 法政大学出版局)

第一章 病的状態は、正常な状態の量的変化にすぎないか?
I,II,III ←いまここ / IV

I 問題への導入

・病気に関する2つの表象の仕方があり、歴史的に入れ替わり現れてきた。

  • (1)存在論的、局在主義的な考え方

病気を存在者の増加や減少と捉える。

  • (2)全体論的、機能主義的な考え方

病を人間全体の自然な均衡の崩れと捉える。病気は自然が新たな均衡を獲得するためのものでもある。
・自然に従うことで治療する(2)の下では、正常なものと病理的なものは異質なものである。しかし、技術によって治療する(1)の下では、両者の異質性は保たれなかった。病気を制御するためには正常と病理の関係を知る必要がある。そこから、解剖学そして生理学に基づいた科学的病理学を作ろうという動きがうまれ、最終的には「病理現象は対応する生理的現象の量的な変異以上のものではない」という理論が生まれる事になる。

・この考え方は19世紀には科学的に保証されたドグマとなったが、フランスでその旗振り人となったのはコントとベルナールだった。このドグマは両者を通じて、哲学、科学、文学、心理学へと深い影響を及ぼす事になる。

II オーギュスト・コントおよびブルセの原理

・コントは1828年、ブルセの『興奮と狂気について』に関する講義で、病理的現象と対応する生理的現象の同一性の原理に共鳴して以来、生涯これを擁護した。コントはこの原理を一般的な公理にまで高めていく。「実在の秩序のあらゆる変更は、〔……〕それに対応する現象の強度にのみ関係する。〔……〕いわゆる本性すなわち種が完全に変わる事は矛盾と認められる」。
・目下の文脈に関係する発言としては、『実証哲学講義』40課に次のようにある。実験のポイントは変化させた現象と統制現象を比較する点にある。とすれば病気とは科学者の目で見ると、有機体の様々な異常な状態と正常な状態を比較できる自然の実験である。「実証主義的病理学の全般的直接的基礎として役立つ〔ブルセの原理に従えば〕、病理的状態は、〔……〕生理学的状態に対して、ある面では単なる延長をなしているにすぎない。すなわち、正常な有機体の各現象に固有な変化の限界—上限であれ下限であれ—をある程度拡大したものである」。
・こうした主張は、医学的実例無しで抽象的に述べられているという特徴がある(しかし実例を考えると、この原理は誤りだと分かる。たとえばシゲリストによれば、伝染病初期と消化で、どちらも白血球の数が増加する)。
・また、病理的事例を系統立てて研究する前には、正常なものの範囲を(観察により)確定させておく事が必要だが、コントは現象を正常だとする規準を示していない。むしろ、何が正常なのかに関しては日常的理解に従っており、結局正常そして異常という概念は科学的なものではなく質的、道徳的なものに留まっている。
・さらに、正常な現象と病理的現象の質的な差異を否定するなら、両者の間に量的な同質性があると認めることになるはずだが、コントは量について曖昧な発言しか残していない。
・こうした不徹底性は、コントが自らの語彙を受けとったブルセにさかのぼれば理解できる。

  • <コントからブルセへ>

・ブルセによれば、生命にとって根源的なのは興奮である。環境は器官の表面に興奮を伝え、表面は神経を通じて興奮を脳に伝える。脳はその表面および全組織に興奮を送り返す。外的な対象と脳という2つの興奮源の継続的な活動によって、生命は維持される。
・生理学は、いかにして「この興奮が、正常な状態から逸脱して、異常な状態」になるかを調べる事で病理学へ拡張される。この逸脱とは不足・過剰のことであり、正常なものと異常なものの差異は量的だとされる。
・しかし、原因(興奮)が連続的に変化するが結果は質的に異なるという事はあり得る(興奮の量的増大は、初めは快い状態をうむが、やがて苦痛を生む)。ブルセ自身、正常な状態と病的状態の等質性を肯定し続ける事は難しく、量の概念である「減少」を質の概念である「変性」と併置してしまう。ここでは、コント以上に、量的な物の曖昧さがめだっている。結局異常なものは、有効で望ましいと判断された尺度(規範)との関係で不足とか過剰とか言われているのである。正常とは単に事実問題ではなく規範的な性格を持ってしまっている。
・ブルセの原理は、正常なものについての純粋に客観的な定義と、正常な状態と病理的状態の間の差異の量的翻訳を要請する。しかしコントはもちろんブルセも両方を満たしていない。このことはブルセに関しては、彼がブラウンとビシャの見解をあまり反省せずに取り入れている事によっている。

  • <ブルセからブラウンへ>

・ブラウン(1735-1788)は、刺激を受けたりそれに反応する能力である「興奮性」によって生命は維持されると考えた。病とは、刺激が強すぎるか弱すぎるかに応じて「過度活力症」と「無力症」の形で現れる、興奮性の量的変化にすぎない。
・ブラウンの理論で興味深いのは、それが刺激された器官の変異傾向を数量的に評価したり、刺激の程度に関する尺度を作り上げた点にある。今日の目からは荒唐無稽だが、ブラウンは病理現象を測定しようとしていたのであり、ここではブルセの学説には無い概念の一貫性が見受けられる。

  • <ブルセからビシャへ>

・一方でブルセは、生命現象を計量化する事は不可能だと論じるビシャの影響も受けていた。しかしビシャは、生命現象ではなく生理的現象(有機体の組成)の特性は量的であり、その量の変化によって病を説明すべきだと考えていた。ここでビシャは、やはり増加・減少と変質を同列にして語っており、ここに、ブルセやコントにみられた概念の曖昧さの源泉がある。

III クロード・ベルナールおよび実験病理学

・ベルナールは、生理的現象が完全に知られていれば病理学的現象も説明できると考えており、この主張の正しさを示す現象として糖尿病に着目する。糖尿は正常な状態では「隠れた気づかれない」現象だが、〔糖の〕量が過剰になるとはじめて目立ってくる。
・ベルナールの批判相手となっているのは、病理的状態と正常な状態では質が違うという主張である。「2つの対立し合う作用因の争いとか、生と死の対立、健康と病気の対立、無機的な性質と有機的な性質の対立等の考えは、使い古されて、その寿命がきた。現象の連続性、それらのわずかづつの漸次的推移、それらの調和等を、至る所に認めなくてはならない」。これは、正常なものと病理的なものとの連続性の考えが、生と死の連続性という考えと繋がっている事を示唆する。実際ベルナールの功績は、無機物/有機物や植物/動物の対立を否定し、あらゆる物理-化学的現象を物質的に言って同一だと肯定し、決定論的仮説を全面的に採用した事にある。
・ベルナールは、有機物界の現象と無機物界の現象が物理-化学的視点から区別される事を認めない。しかし同時に機械論的唯物論も拒否する。「私は生命活動というタイプを、無生物界の現象の中に見る事は出来ない。反対に、たとえ結果は同一だとしても、それらの表現は特殊であり、メカニズムは独特であり、作用因は特有であると私は明言する」。ベルナールにとって、現象の連続性を認める事は、その独自性を否定する事にはならない。
・しかしそうすると、逆にこう言う事は出来ないだろうか。「生理学は一つしか無い、しかし病理的現象というタイプを生理学的現象の中に見る事は出来ない。たとえ結果は同一だとしても、それらの表現は特殊であり、メカニズムは独特だとみなすべきだ」と。というのも、生〔有機体〕と死〔無機物〕を同一視することに制限を付けるなら、なぜ同じ制限が健康と病気の間につかないのか?

・ベルナールは生理学的概念を数量化する方法を持っているが、まだ量的なものと質的なものの間での曖昧さは消え去ってはいない。今の問題はこうだ「病気という概念は、科学的、量的に認識できる客観的実在の概念だろうか」。

・糖尿病患者の尿の中に糖が存在することによって、その尿は正常な尿とは質的に異なるものになる。しかし、メカニズムのレベルで見れば、糖尿は血糖が過剰になって限界点を超えてあふれたものと見なされるので、ここには量の差異しか無い。そうすると、病気をその表現から見るかメカニズムからみるかに応じて、病気は質的現象にも量的現象にもなる。しかし科学的な病理学は、病気の表現ではなく原因を扱わねばならず、ベルナールも明らかにメカニズムの話をしている。
・しかし問題は、生理的機能をメカニズムと見なす事が本当にできるかという点にある。 例えば今日、患者に応じて腎臓の臨界点は流動的であることがわかっており、血糖過多と糖尿との間に「腎臓の働き方」を挿入する図式が必要である。しかしこのとき、量的用語に置き換える事が出来ない概念が導入されてしまう。糖尿病になるという事は〔ただ血糖が増えるという話ではなく〕、腎臓が変わるという事なのである。従って、メカニズムに視点をおいてもやはり質の違いが残るように思われる。
・このような結論は、病気を多くのメカニズムに分割するのをやめて、全体として取り上げられた生命体に関わる一つの出来事と見なすときにはさらに重要になる。実際さらなる研究によって、糖尿病には極めて様々な要因が関係している事が示されている。局在性は絶対的なものではなくせいぜい例外的なものにすぎず、部分で増加したり減少したりしてみえるのも実は全体の変質なのである。
・結局ベルナールの理論が当てはまるのはせいぜい、
(1)病理的現象が「臨床的文脈を無視した」いくつかの症例に限定されるとき
(2)症候の結果から、「部分的な」機能的メカニズムに遡るとき
といった場面である。しかしこのような限定した局面であっても、ある現象の量的変化を、そこに関連する変化を完全に無視した上で、病的状態だなどという人が本当にいるだろうか(たとえば、心臓や腎臓の機能に大きな影響を及ぼす事を無視して、高血圧は単なる血圧の増加だと言うだろうか?)。また、伝染病のばあいは連続性が成り立つとは到底思えず、神経系の病の場合は等質性が成り立つと思えない。

・ベルナールは、科学に基づく技術の全能を信じていた時代の根本要請を医学の領域で表現した。たしかに生理学と病理学は切り離せない。しかしそこから乱暴にも、生命は健康でも病でも同一だとか言う必要は無い。
・病気は有機体が自分の恒常的機能の働きによって作り出すできごとであり、それは有機体にとって、環境に対する新しい行動のモードだと考える事が出来る。
・そして結局、病理的な事実は有機体全体のレベルでのみ把握できるという方が適当である。病気をいくつかの症候に分けたり、併発症から病気を引き離すのは恣意的である。病理的事実に対して生理学的分析が行われるにせよ、それが可能なのは臨床的な情報があるおかげである。臨床において医師は器官ではなくて具体的な個人と関係するからだ。
・しかしなぜ現代の臨床家は病人の視点より生理学者の視点をとるのか。一つには、病気の主観的症候と客観的な症候が重なり合わない事があるだろう。病人は自分がいつもと違うと感じているために、どこがどのように違うのかを知っていると思うものだが、たしかにこの知識はしばしば間違う。しかしだからといって、そのいつもと違うという感じの方まで間違っているとは限らない。病理的状態は質的に異なる状態であることを、この感じは予期しているのであろう。