えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ヘテロ現象学とは デネット (1991)[1998]

  • Dennett, D. (1991). Consciousness explained. New York, NY. Little, Brown, and Company. (1998, 山口泰司訳, 『解明される意識』, 青土社)
    • 第4章 現象学に代わる方法

 『解明される意識』のヘテロ現象学に関連する部分、4章を読み直しました。昔読んだ時は心理学のことを何も知らなかったのであまりピンと来なかったのですが、今回は「ヘテロ現象学というのは科学者にもそうでない人にもおなじみだ」という主張はよくわかりました。デネットはここで何か新しい方法を提案しているのではなくて、むしろ既存の科学的研究の方法がいかに中立的かを明確にする作業をしていると言えます。また、心的状態が虚構であるという主張に関して、心的状態は虚構「にすぎない」(それ以上の何ものでもない)という悲観的な見方がデネットにはまことしやかに帰せられているのですが、デネットは心的状態が何らかの具体物と同一である可能性をかなり積極的に認めている(この点で、「重心と心的状態は違う」と明言している)という点を改めて確認できました。

   ◇   ◇   ◇

1 一人称複数

  • 現象学の探求には明晰で中立的な記述・分析の方法が必要だ。だが、現象学にかんするアカデミックな論争はほとんどにすれ違いに終わっている。このことは、以下の伝統的主張を踏まえれば驚く他ない。
    • (i)人の現象学は互いに似ている
      • 私たちは自分と似ていると思われる現象学的思考の学派に与するので、このように思ってしまうだけなのかもしれない。
    • (ii)内観は信頼できる
      • この主張は正しいが、内観したものの言語化が難しいために論争が起こるのかもしれない。
      • だが、内観で現象学が明らかになるという想定がおかしいのかもしれない。実は観察すべきものはほとんどなく、即興的な理論化を多く行っているがゆえに、論争が絶えないのかもしれない。
      • 実際3章では、私たちが経験内容を知っているという思い込みがいかに誤っているかを見てきた。
        • そこでの実験は生理学的な原因・結果にもかかわるもので、「純粋」現象学の精神には反していた。だがそのような態度では現象学について見落す事もあるだろう。

2 三人称的パースペクティヴ

  • 「現象学者が採用する標準的パースペクティヴはデカルト的な一人称のパースペクティヴであって、そこでは、私が自分の意識経験の中にみずから見いだすものを、私たちが合意に達することを当てにしながら、(あなたにも立ち聞きしてもらえるような)モノローグで、記述するのである。しかし、すでに示した通り、そこから生まれる一人称複数のパースペクティヴという馴れ合いの共犯関係は、誤りの危険な温床となる」(70/翻訳92)。
  • 一方心理学はこの危険性に早く気づいた。そこで今日の心理学はデータの中に心的出来事を含めることに方法論上ためらいを示す。
    • だがここから、心はないとか随伴現象だとかの主張への飛躍を行うのは誤りである。重要なのは、科学的方法の認めるデータから、心的出来事にかんする理論を建てることだ。そこで、三人称的パースペクティヴから関連するデータを記述する中立的方法が必要となる。

3 ヘテロ現象学という方法

  • その方法がヘテロ現象学だ。これは科学者にも一般人にも馴染みのあるものだが、それが何を前提し何を意味しているか、慎重にみていこう。
  • まず、どのような存在者が意識を持つのか。少なくとも大人は意識を持つと言われる。だが哲学者はゾンビの可能性を指摘するだろう。ここでは大人(人)に着目しつつ、実際にそれが意識を持つか否かには中立を保つ。
    • だが、心理学実験の教示には言語を用いざるをえない。このことは、被験者に意識があることを前提していないか?
  • 事態をもうすこし細かく見よう。実験中の音響は記録され、その特定の部分は速記者によってテキストに起こされる。
    • ここでは、物理的音響の世界から統語論と意味論の世界へと一種の抽象化が行われている。テキストは解釈の産物であり、その解釈プロセスは発話者の言語に関する前提や発話者の意図などによって影響を被る。だが、複数の速記者を用意するなどの手を講じておけば、科学を放棄する事なく生データからテキストを手に入れる事ができる。
    • そして以上のプロセスは、被験者には自分が何を言っているか実は分かっていない可能性とか、被験者は実はオウムやコンピューターやゾンビだという可能性にかんして、全く中立に行われうる。
  • さらに、テキストを言語行為の記録として解釈せねばならない。ここで我々は志向姿勢を採用する必要がある。
    • 発話は様々な理由から行われうるから、志向姿勢の採用には誤りの危険が伴う。そこで、被験者にうまく教示を与える事で、信じている事をそのまま言ってもらえるようにする事が重要となる。
      • なおボタンなどを利用する実験でも志向姿勢は必要になる。ボタン押し行動は言語行為を遂行する手段だからだ。
  • 実験状況から様々な曖昧さを取り除く事で、一つのテキスト解釈が断然説得的になることが理想となる。この場合、その解釈が表現しているものこそ、被験者の信念なのだと受け取られる。

4. フィクションの世界とヘテロ現象学の世界

  • だが志向姿勢をつかうことは、被験者の意識を前提しているのではないか。
    • 〔上の方法は、〕行動に首尾一貫した解釈ができるという事〔から、その解釈は実際に正しく、そこに登場する心的状態が被験者に本当にあると言ってしまっていないか〕。だが、首尾一貫した解釈の存在とその解釈の正しさは別問題である。被験者はあたかも意識的に見えるだけで、本当は何も経験していないのかもしれないではない。
  • だが、解釈が可能だという事を、〔実際の心的状態にコミットせずに〕記述する方法が存在する。被験者の振る舞いの解釈はフィクションの解釈のようなものだと考えればいいのである。
    • 小説の読者は、文学テキストから物語世界に関する事実を積み上げる事ができる。そしてこのとき読者は、小説の世界と現実世界の関係がどうなっているのかという問題は棚上げにしておくことができる。
    • 同様にヘテロ現象学者は、被験者をフィクション発生装置として扱う事ができる。我々は被験者のテキストから、被験者のヘテロ現象学の世界に関する事実を積み上げられる。この時、ヘテロ現象学の世界と現実世界の関係にまつわる問題は棚上げできる。

5. 人類学者の奥ゆかしい魅力

  • このような態度は、相手の発言の権威を無造作に認めない点で通常の人間関係とは異なり、未知の社会の風俗を探求する人類学者の態度に似ている。
    • だがこれは中立性を手に入れるためにはやむを得ない。実際のところこの態度は一時的通過点にすぎず、ここから出発して、現象学に対する被験者自身の信念を正当化してくれるような経験的理論を考案・確証することができる。

6. 誰かが本当のところ何について話しているのかを発見すること

  • だが、被験者の現象学への信念を確証するとはどういう事なのか。
    • 小説が実は自伝〔現実と対応している〕なのではと問う際には、著者に尋ねるのが一番よい方法とは限らない。また、ある社会で信じられている神が実在したという主張は、信じられている全ての特徴がなくてもかなり似ている何かが見つかれば正当だろう。そこで、
  • 「もしも人間の脳の中で現実に起こっていることがらが、人間のへテロ現象学的世界にすんでいるモノ[item]の定義的諸特徴を十分な数持っていることがわかれば、はじめはこの両者を同一視するのには抵抗があるかもしれないものの、人々が本当に語っているものを我々は発見したと言っても良いのではないか」(85/109)
  • この〔実在にかんする〕問題を、人類学者と同じように中立的を保ちつつ追求することができる。だが、現象学的なものと神経生理学的なものはどう考えても似ていないのだから、わざわざ中立になる意味が無いと思われるかもしれない。これは本当だろうか。

7. シェーキーの心的イメージ

  • シェーキーというロボにはカメラがあり、物体の形を識別できる。このプロセスをモニタに出力すると、カメラの画像が様々な純化・修正を経て線描画に変わるさまを観察できる。シェーキーはこの線描画の輪郭線を分析し頂点の形を見分け、物体の形を識別するのである。
    • だがモニタ上の出来事とシェーキー内部の出来事はどういう関係にあるのだろうか。
  • シェーキーにはカメラから、暗い領域に対応する0と明るい領域に対応する1が入力される。この0と1は、モニタ上で画素が配列されるのと同じように、一続きに配列される(図4-4)。こうした数列の中に特定の周期性を求めるプログラムにより、明暗の境界を見つける事ができる。その後、0と1を慎重に置き換える事で、輪郭線を手に入れる事ができる(図4-5)。その後、頂点の識別といったより洗練された処理が行われる。
    • この処理は、私たちがモニタ上で見ていたイメージ的な出来事と同形であることがわかる。このことはモニタを切っても変わらない、
    • ある厳密な意味では、シェーキーはイメージ処理をしていない。だが、別の比喩的だが厳密な意味では、シェーキーはイメージ処理している。というのは上でみた処理は、明暗の境界を輪郭線に変え頂点を識別するもの〔と記述する事もできる〕からだ。
      • 「比喩的」なのは、このイメージには色も形も位置もないから。
  • シェーキーに簡単な質問に答える能力を持たせるとしよう。「箱とピラミッドとどう区別するのか」という問いにどう答えるよう設計すれば良いか。
    • (1)0と1の数列にかんする語彙による(長々とした)回答
    • (2)イメージの語彙による回答
    • (3)「わからない。箱はただ箱に見える」
  • どれもある意味正解である。何故ならこれらは、同じ情報処理を異なったレベルときめ細かさで記述しているにすぎないからだ。
    • 仮に(2)のように答えるとしよう。ここでシェーキーからモニタを外したら、シェーキーはイメージ処理をしていると思っているが本当はしていないということになるだろうか。〔ならないだろう〕。
    • 一方、もっとデタラメな回答を行うよう設計する事もできる。この場合シェーキーは、それと気づかず作話しているだけということになるだろう。
  • 人間も同じように、知らずして憶測や思弁や理論化と観察のとり違いをおかしてフィクションを創作する。だからこそヘテロ現象学の解釈はフィクション解釈のようにやらなければならないのである。
    • 被験者のフィクションは、当人に思われていることとは一致しているのだろうが、現実に起こっていることに関する導き手としては不確実だ。
      • だが(2)のような比喩が正当だとするなら、フィクションが後から真だと分かることもある。シェーキーの例は、実際にはイメージではないものが、イメージという語彙で語れるものと同一でありうるというのはどういう事か、教えてくれる。

8. ヘテロ現象学の中立性

  • ヘテロ現象学はどの程度中立的なものとなっただろうか。
  • ゾンビについて。ヘテロ現象学はゾンビと普通の人間を見分けられない
    • ゾンビにヘテロ現象学の世界があることは認めるが、これはフィクションなのだから、ゾンビの可能性について中立を外れるわけではない。
  • 理論家が虚構について語るのは恥ずべきことではない。神々や魔女を研究する人類学者も、重心について語る科学者も、虚構について語っている。
    • しかも今回は重心とは違い、こうしたフィクションを基にして具体物を手に入れられる可能性もある。だが、現象学的なモノ[虚構物]が本当に脳の中の出来事[具体物]なのかを明らかにするには、それについてのヘテロ現象学的な調査を周到に行う必要がある。
  • また、ヘテロ現象学の三人称的アプローチは、一人称的な視点を台無しにしている訳でもない。自分のうちで起こっていると思われる事柄については、被験者のあらゆる発言は(理論化さえ控えていれば)ヘテロ現象学的世界を構成するものとして権威を認められるからだ。
    • ただし、自分のうちで起こっている事柄について権威は認められない。
  • ここで真の現象学者を名乗るものは、自分が語っていることはフィクションではない、実在なのだと言ってくるだろう。
    • だがこの人は、どうして自分がそのような報告を〔(すると思われるのではなく)実際に〕するのかについて、何の手がかりも持っていない。
  • 真の現象学者は更に、自分はただ発言しているのではなく、どうしてするのか、そして言葉の意味は何か、理解していると言うはずだ。
    • そうだろう。だからこそ、この人の報告はでたらめではなく解釈可能なものになる。だから、「ただ言う」ことと「言って意味すること」の違いは何らかのかたちで説明されるはずだ。しかしその説明をこの人は持っていないのである。

  • こうして、現象学を記述したり探究するための「中立的」方法が開発された。理論家はヘテロ現象学を抽出した後、その実在を説明するものは何かという経験的問題に移ることができる。
    • もし具体物の候補が見つかれば、それを被験者の指示対象だと同定できる。無ければ、ではどうしてあると思われていたのかを説明せねばならない。