えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

やっぱり経験的に言って内在主義は間違っているのではないか Roskies (2007)

Moral Psychology: The Neuroscience of Morality: Emotion, Brain Disorders, and Development (The MIT Press)

Moral Psychology: The Neuroscience of Morality: Emotion, Brain Disorders, and Development (The MIT Press)

1.内在主義とは

・Roskiesの2003年論文は、「行為者が、状況Cにおいてφする事が正しいと信じているなら、Cにおいてφに動機づけられる」という強い内在主義を相手どった。
・ちなみにRoskies自身の考えを先に述べる。人間には(判断を可能にする)認知システムと(行為システムに入力する)感情システムがあり、それらは別々の脳領域で実現される。そして、VM皮質は両者が因果的に結合にする部分だが、両者の結合は因果的で偶然的なものであって構成的なものではない。このために、確かに道徳判断は普通は動機につながるが、それは必然的あるいは内在的に動機づける訳ではないと考えるのである。

  • (1) 必然性について

・Kennett & Fine は、Roskiesが必然性を強調することを批判する。しかし必然性は内在主義の中心的特徴である筈だ(Cambridge Dictionary of Philosophy)。ceteris paribus節つきの内在主義は寛大すぎて、節のとりかたによれば必然的な動機付けがなくても(つまり外在主義者でも)認められるし、この節を具体化しないと結局は空虚な主張である。ceteris paribus付きの内在主義が、人間の道徳推論のふつうのあり方を記述しているなら別に争わない。しかし内在主義はそれ以上の、道徳性の「本性」に関する主張であるはずだ。
・必然性を含む見解だけが、道徳判断や信念を、その内容の特殊性によって、他の種のものから区別する事が出来る。例えばスミスの見解は、「行為者が、状況Cにおいてφする事が正しいと信じているならば、彼はCにおいてφに動機づけられるか、もしくは、実践的に不合理である」というものだが、「実践的に不合理」とはどういう事なのかについて独立で実質的な説明を与えなければ、外在主義に対する反論にはならない。

  • (2)判断のタイプについて

・内在主義にとって重要な判断のタイプについて。2003年論文は、関連文献でもよく見られるような、個別的で一人称的な仮説的な主張を問題にしていた。ここでKennett & Fine は、VM患者に対して行われたテストが三人称的シナリオである点を批判したが、ダマシオ以外の実験ではちゃんと一人称的なシナリオも含まれており、患者の判断は健常者と同じだった(Adolphs, personal communication; see, Roskies, 2005)。
・また2003年論文が一人称的判断に着目したのは、Kennett & Fineが指摘したように、信念があっても注意不足等で判断が失敗するケースを排除するためだった。しかしこの考察からK&Fが、重要なのは一人称的な「その場の」判断であると主張したのはおかしい。
・まず、「実際に人を殺す事が可能な状況での判断(「その場」判断)でなければ殺人をやめようと動機づけられることは無い」などということはない。我々はどの時点を取っても殺さないように動機づけられている。さらに重要なのは、道徳判断を道徳判断足らしめているのはその内容なのであり、判断が「その場」か「仮説的」かというのは、〔「道徳」判断の本性に関する主張である〕内在主義の問題とは関係がない。

  • まとめ

・Roskiesが取り上げた内在主義は、外在主義との差別化のために必然性に言及し、判断を「その場の」ものに限らない。これは関連文献によくある内在主義である。逆に、K&Fが好むceteris paribus節付きのその場に限定された内在主義は、内在主義だというにはあまりに主張が弱すぎる。

2.内在主義に反する証拠

・まず、K&Fが「Roskiesの議論はEVRの事例一例に基づいている」と言うのは誤解である。別の患者で似たデータを示すものもいたし(Damasio, Tranel, &Damasio, 1990; Adolph &Hause, personal communication)、最近の研究でも類似の結果が見られる(Young, Cushman, Adolph, Tranel& Hauser, 2006)。微妙な違いがあるというデータもあるが(Koenigs et al., 2007)、異常という訳ではない(see. Roskies, 2005)。
VM患者の行動が道徳に関係ないという批判について
・VMの損傷はしばしば広範で、そこに由来する障害は社会的意思決定の障害と特徴づけられる。しかしその一部として少なくとも彼らは自分が悪いと判断することを行ってしまうのだから、その限りで内在主義の「道徳判断は動機を含む」という主張には圧力がかかる。
・K&FはVM損傷患者が暴力的にならないという指摘をしているが、道徳的動機がないことは非道徳的動機があるということではない。さらに言えば、内在主義は必然性の主張なのだから、道徳判断と動機が〔しばしば〕共起するということすら重要ではない。
・またK&Fは、道徳の障害は特異的なもの――善いことをしようという動機の欠如――でなければ外在主義に有利ではないと考えている。しかしこれは、〔単一の動機を措定するような〕単純な外在主義のことしか念頭に置いていない。たとえば冒頭で提示したRoskiesの外在主義は、VMを損傷すると道徳特異的障害が出るなどということを含意しない。
・最後に、K&FはダマシオらがVM患者を「意思決定の障害」と特徴づけたことがRoskiesの見解と整合しないというが、そんなことはない。意思決定は判断と行為の両方を含んでおり、EVRの障害はその一面(後者)の障害なのである。ダマシオはアイオアギャンブル課題に関して、VM患者は正しい〔確率に関する〕知識をもつがそれだけでは行動に不十分であると述べた。同じ障害は道徳の領域にも拡がっていると思われる。

  • 早期にVMを損傷した患者が暴力的である件について

・早期VM損傷患者が非倫理的だが後期VM損傷患者はそうではない。これに関してK&Fは、後者は道徳的知識を保っておりそれによって動機づけられたのだと考える。しかしこのことは外在主義を脅かさない。なぜなら問題なのは、道徳的動機が残っている事例があるかどうかではなく、判断があるのに動機がないことが一例でもあるかどうか、だからだ。〔これはK&Fの議論を誤解しているように思う。K&Fのポイントは後期VMの方じゃなくて、早期VMが道徳を理解していないという点にある〕

  • SCRの動機の指標としての信頼性について

・Roskiesは、絵を見せてSCRを測定する課題は倫理的負荷ある状況だと考えていた。しかし、この課題においては必ずしも道徳判断は必要ないというK&Fの指摘は確かに正しい。さらなる探求が必要。
・しかしそれよりもっと重要なのは、SCRが動機の信頼可能な指標ではないという批判の方。K&Fは、SCRが表象するのは知識だというダマシオの見解がRoskiesの見解と一致しないと言う。
・しかしそうではない。ダマシオのいう「選択肢の情動的価値に関する知識」というのは、古典的な認知的な意味での知識ではない。むしろこれは、おそらく動機づけ力を通じて意思決定プロセスに影響を与えるような、選択肢の情動的価値に関する身体的指標である。そして内在主義者は判断に動機が伴ってくると考えるのだから、このような知識がまさに「推論過程の後ろの段階」(Damasio, 1994)に現れると期待することができるだろう。
・さらに、Adolph (personal communication) によれば、VM患者が自分のべき判断に従えない時にはSCRは現れず、従う時には現れる。つまり「SCRある→動機づけられている」ということだが、これは「動機づけられている→SCRある」という逆の推論にも一定の支持を与える。

  • さらなる実験

・弱い内在主義をも倒すためには、VM患者に「その場で」道徳判断をさせることが必要だ。が、倫理的制約からこれは無理だろう。いま利用可能な実験データも、哲学的目的のために行われたものではないので、K&Fが言うようにここで問いを決しようというのは不適当である。
・たとえば、絵をみてSCRを測る実験に関しては、次の2つの解釈間で確定することができない。(1)VM患者は道徳判断をしているが、受動条件ではSCRを示さない。しかし能動条件では、見たものを記述することで損傷によるシステム間の断絶がバイパスされてSCRが出る。(2)受動条件では道徳判断をしていない。能動条件ではしている(K&Fの解釈)。
・それから、VM患者は道徳的状況を本当にそういう状況だと認識しているのかを考えることも重要だろう。実生活と仮想的状況での熟慮の間の乖離は、このような疑似知覚的な能力の障害によっている可能性もある。

3.サイコパスからの証拠

・K&Fは、内在主義に対する反例は無傷な道徳能力からしか出せず、従ってサイコパスは反例になりえないと論じた。K&Fは、サイコパスの道徳判断が真の道徳判断ではないというためにいくつかの論拠を挙げている。

  • (1)道徳慣習区別への失敗

しかし、道徳慣習区別が道徳判断にとって本質的であるかという点は論争の余地がある(Kelly, Stich, Haley, Eng & Fessler, 2007; Kelly & Stich, forthcoming)。この区別ができないと言って、道徳概念や能力がすべて無いというのはなさそうだ。

  • (2)情動の障害・統一性

K&Fは、道徳判断には情動の標準性が必要だと考えている。また、規範的概念には思考の統一性が必要だとも考えている。しかしこれらの制約には論争の余地があり、K&Fはなぜ道徳判断だけがこのような特徴をもつのか説明すべきである。

  • (3)道徳語に関する異なった意味理解

K&Fは、道徳語の意味に関して2要素説(記述的意味/情動的意味)をとり、後者がサイコパスにおいては損なわれていると示唆する。ところで、情動的要素はVMの損傷ならずとも、たとえばうつ状態などによっても影響を受けるはずである。しかしそうすると、話者の気分によって道徳語の意味が変わるということになる。これはありそうにない。

  • (4)推論

最後に、サイコパスは推論の仕方が健常者と異なるので道徳判断に障害をもつとK&Fは示唆する。たとえば、サイコパスは現実的な道徳的ジレンマを、自己関心の正統性の観点から正当化しがちである(Treverthan & Walker, 1989)。しかし、正当化の種類こそ違えど、サイコパスは正当化を提出できるのであり、ここからサイコパスが道徳能力を欠くという主張へ進むことはできない。

・ところで、K&FはJS(道徳理解にも道徳行動にも障害がある)の例を、内在主義に支持を与えるものとして引用する。なぜなのか。この例は端的に内在主義の問題には関係ない〔これはK&Fはそう言っているので議論が噛み合ってないように思える〕。健常者であれJSのような事例であれ、道徳理解と道徳行動に相関があるだけでは内在主義を支持することはない。この点に関しては外在主義も否定しない。

・Roskiesは決して、道徳判断と道徳行動の間のいかなる結びつきをも否定しようとしているわけではない。両者のつながりは偶然的だというだけであり、つながりが内在的だという主張が敵なのである。
・K&Fは、実験が最善のデザインになっておらずデータが不十分だと指摘してくれた。しかしそれ以上に、判断が内在的に動機づけることを積極的に信じる理由を与えることには失敗している。