えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

神経科学は刑法への帰結主義的アプローチを推奨する Greene & Cohen (2004)

http://rstb.royalsocietypublishing.org/content/359/1451/1775

  • Greene, J. and Cohen, J. (2004) For the law, neuroscience changes nothing and everything. Philosophical Transactions of the Royal Society B: Biological Sciences, 359: 1775-85.

 神経科学が法に及ぼすだろう影響を、自由意志に注目して論じた論文です。

 法による懲罰を正当化する2つの標準的方法があります。将来の有益な効果に訴える「帰結主義」と、加害者は罰に「値する」という点に訴える「応報主義」です。帰結主義には、軽微な罪に対する強烈な罰が正当化される可能性があるという問題があり、罰に関する「完全な」規範理論としての身分には疑念が投げかけられています。この点応報主義の方が罰に関する我々の直観をよく捉えていると言えます。「値する」(desert)という概念は自由意志を要求しますが、法は標準的には自由意志についてそれは決定論と両立すると考えています、そこでMorse (2004) は次のように論じました。「法的責任に必要なのは決定論と衝突するタイプの自由意志ではなく、一般的な最小限の合理性である。しかし神経科学が我々の合理性への信頼を堀崩す事はなさそうだ。従って、神経科学には誰が合理的かを明らかにするのを助ける伝統的役割しか無く、法を大きく変えはしない」。なるほどこれは正しい。しかし、法の正統性はそれが人々の道徳的直観を適切に反映している事に依存しています。この道徳的直観の方が神経科学によって揺すぶられる可能性があります。

 ここでグリーンらは思考実験として、科学者の管理下におかれ犯罪を行うように成長させられた人物を想定するよう促します(Rosen 2002)。我々の直観ではこの人物に完全な責任を帰属させる事は難しいでしょう。しかし、この人物の合理性は完璧なので、刑法はこの人物に完全な責任を要求します。このことは、刑法が求める事と私たちの真の関心が微妙に食い違っていることを示唆します。我々の直観的な自由意志概念は非両立論的であり、そうした意志によって行為が内的に決定されているか、それとも外的要因によって決定されているかこそ、私たちの真の関心なのです。合理性は、行為が外的に決定されていないことの関物だと思われてるにすぎません。

 さて、世界が決定論的なものあるならば、人間はみんな行動が外的に決定されており、この点で全ての人間は上の思考実験中の人物と変わりません。そして神経科学は、あらゆる要因が行動に影響を及ぼす際に通過するボトルネックである「脳」のメカニズムを解明する事によって、人間の行動の機械論的性格を明らかにします。このことは、リバタリアン的自由意志のありえなさを示します。従って、真の意味で有罪な行為と、脳や神経のせいでやってしまった行為を区別しようとすることは、ポイントを外した事になっていくでしょう。

 そもそもどうして自由意志の問題は生じるのでしょうか。Wegner (2002) は、我々が自分を「動かされずに動くもの」だと感じるのは、行為を生み出す脳内の決定論的過程に気づけないからだと説得的に論じました。では他人への自由意志帰属はどうでしょうか。世界には無性物と生物という全然違う風に振る舞う存在者があります。そこで人間は、それぞれに関する情報を処理するのに別の認知過程、「素朴物理学」のシステムと「素朴心理学」のシステムを進化させました。そして生き物の特徴こそ「動かされずに動く」ことなのです(Scholl & Tremoulet 2000)。しかし幾千年を経て科学は、「動かされずに動くもの」など無いことを教えました(決定論)。ここで自由意志の問題が生じるのです。この問題は二つの異なる認知システムの間の衝突から生まれているのであり、直観的に満足な形で解けた試しが無いのは当然です。

 しかし「直観的に満足な答え」が無くても、「答え」はあります。決定論は正しく、リバタリアン的自由意志は幻想でしょう。しかしだからといって、責任帰属に正当性がなくなる訳ではありません。「帰結主義」的な刑罰の正当化は自由意志を必要としないからです。過剰/過小な刑罰が正当化されるという前述の疑念には、「現実的には」そんな事は起こりえないという標準的反論があります。また、リバタリアン的な自由と応報主義は人間心理に深く埋め込まれており克服できないという反論があり得ます。しかし、たとえば日常的にはユークリッド的に世界を理解しないことはできませんが、ロケットを飛ばすなどの特殊な目的のためには、非直観的だがより精確な相対論を採用した方が良い。これと同じように、日常的にはこれらの直観を維持していてもかまいませんが、刑を決めるという重要な場合には、自由意志は否定されるべきです。

 刑事責任に関する応報主義は、直観的なリバタリアン的自由意志という幻想に基づいています。刑法へのアプローチはより帰結主義的になっていくでしょうし、そうすべきでしょう。