えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

リンネと18世紀の博物学 松永 (1992)

博物学の欲望―リンネと時代精神 (講談社現代新書)

博物学の欲望―リンネと時代精神 (講談社現代新書)

  • 松永俊男 (1992) 「博物学の欲望」 (講談社)

リンネの生涯を軸に、18世紀の博物学の事情を手堅く追いかけた一冊です。

 博物学は18世紀の流行学問でした。植民地経営の本格化でヨーロッパには様々な文化の事物が大量流入し、珍品収集熱が煽られたのです。ロンドンの珍品収集家ハンス・スローンの博物標本を元にして大英帝国博物館が作られたほどです。収集家たちは世界各地の博物学者ともひろく文通し、博物学者の国際的ネットワークがつくられていきました。また園芸も流行し、富豪たちが庭園を造るとともに、「パリ植物園」のような研究用の植物園も各地に設けられていきます(5章)。
 そんな博物学熱のなか、雄しべと雌しべによってあらゆる植物を24種類に分類してみせたのがリンネの「性の体系」 でした。これは一性質に着目する「人為分類」で色々と矛盾点もありましたが、その実用性から、とりわけアマチュアが博物学を担うイギリスで広まります。父ダーウィンの『植物の愛』などの解説書も一役買ったようです(1章)。
 この人為分類と、様々な性質から分類を行う「自然分類」の背景には異なる哲学があります。ディオスコリデスやボアンの流れをくむ本草学から、被造物の理解を通じて神に近付くという自然神学的意識で持って博物学を自立させたイギリスのジョン・レイは、ロックの経験論的精神から自然分類を目指しました。一方フランスのツルヌフォールは、整然としたアリストテレス的論理に基づき花弁に着目した人為分類を唱えました。結局イギリスでもリンネの人為体系が流行る訳ですが、レイの自然分類は逆にフランスで受け継がれ(甥)ジュシューが作った無子葉類・単子葉類・双子葉類をもとにした体系が今日の植物分類の基礎となります(2章)。
 しかし、「リンネは自ら開発した方法論の箱の中に、「性の体系」という中味をいれ、生前はこれで名をあげた。ところが現在では、「性の体系」という中身は全く見捨てられ、方法論という箱が高く評価されている。(pp. 75-76)」。リンネには、属と種差の命名法を改め、属名と種小名の二名法を採用した功績があります。これで「種差の記述」と「呼称」が別になり、人によって正種名が異なる事態が避けられます。さらに「がく片」「花弁」「花冠」などの用語の定義や、♂♀などの記号の導入によって、博物学の統一的方法の基礎が作られたのです(3章)。
 リンネの簡単な伝記の後(5章)、世界中で標本を採集しリンネに送った「使徒」、特に田沼意次の時(1775-6) 日本に来たツンベリーに話題は移ります。彼は出島で飼料の植物を採取したり通訳から標本や図書を得つつ、長崎近郊で植物採取をしたようです。また商館長の将軍拝謁に同行し、徒歩での箱根越えの際と江戸での蘭学者との交流から標本を得ました。スウェーデンに帰ってからも蘭学者との文通は続きました。日本でも、リンネの体系を初めて紹介した伊藤圭介の『泰西本草名疏』(1782) 、宇田川榕菴の簡潔な『菩多尼訶経』(1822) や西洋植物学の解説書『植学啓原』(1834) 、約2000の植物をリンネ式に分類した飯沼慾斎の『草木図説』(1856-) が現れます。ただし植物研究の主流は本草学のままでした。博物学を支えるキリスト教的背景が無かったからでしょう(6章)。
 リンネの死後、その標本は紆余曲折を経てイギリスの若き医学生J・E・スミスに売却されます(1784)。彼と、当時イギリスの博物学界の有力者バンクス、リンネの弟子ドライアンダーらによりロンドン・リンネ学会が1788年に設立。バンクスの発展させたキュー植物園や大英帝国博物館とともに、イギリスの博物学研究において中心的役割を果たすようになります(7章)。
 かくしてリンネの時代は終わり、19世紀はダーウィンの時代です。しかし、ダーウィンは自然界を神の英知のあらわれと見るリンネの自然観から出発していますし、ダーウィンの博物学上の最大の功績は実は、リンネに由来する学名の完璧な目録『キュー・インデックス』の作成なのです。そしてなにより、ダーウィンの背後にあるイギリスの博物学の研究体制はリンネの博物学を基礎に組織化されたものでした。こうして、リンネの博物学は現代生物学につながっていくのです(エピローグ)。