えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「『イリアス』あるいは力の詩篇」 ヴェイユ (1953) [1998]

  • ヴェイユ・シモーヌ (1953) [1998] 『ギリシアの泉』 (冨原訳 みすず書房)
    • 「『イリアス』あるいは力の詩篇」

 「『イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、力である」という印象的な冒頭の後、力は「屈するものを「もの」にする」という特徴づけが与えられます。それは人を、死体、死を前にした嘆願者、あるいは一生死んだまま生きるような奴隷の運命に追いやるという事です。しかし『イリアス』では、力を絶対的に所有する者は誰もいません。全ての登場人物が、ある時には力を振るいある時は力に屈する者として描かれ、強者も弱者も絶対的ではない。しかし人間はそのことを知らず、力を過剰に用いる誘惑に負け、その報いを受けることになるのです。かくして盲目の運命は正義を実現します。このことは戦争全体のレベルでも同じで、戦争はシーソーゲームのように進行していきます。

 このとき、勝者も敗者も同一の悲惨の中の兄弟です。「みな呪われている」。こうした陰惨な状況に、しかし人は簡単に陥ってしまいます。恐怖や敗北や仲間の死によって、人は戦争を「逃れられない」ものだと考えてしまうからです。

……われわれのためにゼウスは
割り当てたのだ、誕生の時から老年にいたるまで、骨折ることを、
苦痛に満ちた戦さで、われわれの最後の一人までが滅びることを(pp. 34 〔『イリアス』14巻 85-87〕)

 そしてこの悲惨な状況からの解放は、「すべての破壊」という形でしか観念されえません。実際、友の死を経験することで、英雄は死を急がせる陰鬱な「死への競争心」を掻き立てられます。

ああ、すぐにでも死んでしまいたいものだ、私の友が
わたしの援けもなく斃れねばならなかったのなら。祖国から遠く離れて
かれは滅びた。わたしはかれらから死を遠ざけるために居合わせもしなかったのだ……(p. 38 〔『イリアス』18巻 98-100〕)

 こうして、自らと他者を同時に滅ぼそうとする「死の二重の欲求」が人に憑りつきます。だから力とは、屈する者はもちろんのこと、それを振るう者をも「もの」にしてしまうのです。

わたしはよく承知している、私の運命はここで滅びることであると、
愛しいわたしの父と母から遠く離れて。それでも、
トロイ勢がうんざりするまで戦いをやめないであろう。(p. 38 〔『イリアス』19巻 421-423〕)

 力を振るう人々の無頓着さ、兵士を破壊に駆り立てる絶望、奴隷や敗者の蹂躙、虐殺。『イリアス』はこうしたおぞましい人間の悲惨を一切の隠し事なく描き出します。しかしそれだけではない。その陰惨な光景の中に、ほんのわずか、詩人は魂の輝きを語ることを忘れません。その最たる例は愛です。一宿一飯の友、親子の愛、兄弟愛、夫婦愛、戦友の友情、そして仇敵同士の心に湧く友情......『イリアス』にはさまざまな形の愛が描かれます。そしてまた詩人は、惨状を冷酷に歌うものではなく、滅びるものを惜しむその語調は苦渋に満ちています。こうしたことが、力によって滅びゆくものを痛惜に感じさせるのです。

 「力への服従」から逃れられるものは、死すべきものの中には誰もいない。だからこそ、それに支配された人物も軽蔑されず、支配をまぬかれた人も痛ましく愛される。ヴェイユはこれこそが西洋の持つ「叙事詩の精神」であり、それはアイスキュロスやソフォクレスの悲劇、そして『福音書』に再び示されていると考えます。

転変きわまりない運命と必然とがどれほどまでに人間の魂全てをその従属下に置くものであるかを知らない者は、偶然が自分から深淵を挟んで隔ててしまった人びとを、自分の同胞とみなすことも自分自身と同じように愛することもできない。人間たちのうえに重くのしかかる相反するものからなる多様性は、人間の中には互いに伝達しあえない異なる種族が存在するのだという幻想を生じさせる。力の支配を知り、しかもこれを尊重しないすべを知らない限りは、愛することも義しくあることも不可能である。(p. 55)

  ◇  ◇  ◇  
  
シモーヌ・ヴェイユが第二次大戦中に書いた小論で『イリアス』解釈の体裁をとっていますが、人間の悲惨にかんする美しいエセーです。それでは、本年もよろしくお願いします。